{ 47: 一日楽医院(3) }
その日、春樹はひとりで電気工事の仕事をした。ヒトヒラ先生は「いたって健康」と太鼓判を押してくれたものの、あの状態のロウを仕事につれていく気には、到底なれなかった。ロウに訊きたいこともあったけれど(ケモノの戦士になるとはいったいどういう意味だという疑問が、さっきから台風さながら春樹の中で渦巻いている)、そのことを胸にしまい、春樹はロウを部屋に残して出かけた。ロウをひとりにしておくのは心配だが、さりとて看病の必要があるわけでもなく、食い扶持を稼ぐためにも春樹は働かなければならなかった。
半ば予想していたとおり、仕事に集中できなかった。この日は、老夫婦の暮らしているアパートで、火事で黒焦げになった配電盤を交換するだけに終わった。普段の春樹なら、この五倍量の仕事を嬉々として終わらせていたことだろう。
配電盤から出火した原因は、以前の業者の手抜き工事によるもので、火事になる前に消火できたのは、不幸中の幸いといったところか。例の悪夢ではないけれど、この街でいつか大火事が起こって、みんな黒焦げになってしまうのではという不安が、このごろ頭をよぎるようになった。本当なら、ホコリの積もった電気ケーブルを掃除したり、アパートの他の部屋の扉を叩いて住民たちに注意喚起をしたり、電気系統の定期点検を促すポスターを街中に張り出したりしたいところだけど、今日はとてもそんな気になれない。
午後も早い段階で仕事を切り上げた春樹は、ヒトヒラ医院を訪れた。まだ診療時間中で、院内にはたくさんの患者たちが自分の番を待っていた。春樹は、待合室の隅っこに立って、先生がすべての患者の診察を終えるのを待っていた。
患者がはけるまで、二時間くらいかかった。その間ずっと待つはめになったけど、そんなことは全く気にならなかった。考え事をしていたせいで、あっという間に時間が経ったからだ。春樹の頭の中は、この街の電気の配線のようにこんがらがっていた。辛い事実を突きつけられた朝食のあの時からずっと混乱しているのだ。
「シュオの夢を見た者は、ケモノの戦士になるだって? ケモノの戦士は、僕が『動物面のテロリスト』と呼んでいたヤツらのことじゃないか。僕をこの黒い塔まで誘拐してきたうえに、処刑しようとした張本人たちだ。まさかロウがヤツらの仲間になってしまうのか?」
イサミという探窟屋からヒトヒラ先生の名刺を渡されてから一ヶ月、やっと先生に会えたというのに、まさかこんな事態になってしまうとは。ヒトヒラ先生には、もっと色々なことを聞かなくちゃならない。どうしてイサミさんは、「ヒトヒラ先生を頼れ」と僕に伝えたのか? イサミさんとヒトヒラ先生は知り合いなのか? 先生は、僕が塔を脱出する手助けをしてくれるのか……?
わけのわからないことばかりだった。先生が朝食の席で話を打ち切ったのは、むしろ良いことだったのかもしれない。時間をおいて、ロウ抜きで先生と話したほうが、遠慮せずたくさんの質問をできると思ったからだ。たとえば、シュオではない春樹が、どうして悪夢を見ていたのか? あるいは、どうして春樹がケモノの戦士になっていないのか? そして、どうして春樹はあの夢を見なくなってしまったのか……?
疑問の答えがすべてわかると期待していなかったし、よしんば何もわからなくたってかまわない。むしろ、どうでもいいことにさえ思える。春樹の頭をかき回しているのは、「苦しむロウを置いてはいけないのに、一刻も早く、黒い塔から脱出したい」という切実な本音だったからだ。
「春樹君、待たせたね」
春樹は顔をあげた。目の前には、診療を終えたばかりで少し汗ばんでいるヒトヒラ先生が立っていた。気がつけば夕刻で、待合室からは患者がひとりもいなくなっていた。
◇
「今日は、火葬屋のローブを着ていないんだね」
春樹を診療室に案内すると、ヒトヒラ先生は言った。
「そのことを注意し忘れていたから、君があの格好で来るんじゃないか心配だったんだ」
春樹は、診療室の丸い椅子を勧められたので、そこに座った。
「あのローブを着ていると、どうしてか、みんな僕のことを避けます。まるで僕がそこにいないかのように振る舞うんです。正直、その方がありがたいんですが……」
「だとしても、あのローブは着ないほうがいい」
「どうしてですか?」
春樹は尋ねた。
「彼らは、死者のもとを訪れ、荼毘に付す」
ヒトヒラ先生は答えた。
「つまり、死んだ者たちの体を回収し、火葬して灰に帰すことを生業としている。その都合上、様々な特権を与えられているんだ。例えば火葬屋には、黒い塔のすべての階を自由に移動できる。逆に、その特権のために身分に偽装することは重罪とされる。ばれたら、殺されたって文句は言えないんだよ」
「特権ですか……僕は、火葬屋が住民たちから嫌われているように見えました」
「ちがう! 畏れ、敬われているんだ」
先生が、急に興奮した口ぶりになったので春樹は驚いた。そんな春樹の様子にきづき、先生はハッとなって口に手をあてた。
「すまない、急に声をあげて……」
先生は言った。
「取り繕ってもしかたないことだな。君の言うとおりだろう。『畏れ敬われ』なんてのは、『忌み嫌われる』の裏返しでしかない。彼らは死の象徴であり、住民たちからすれば、恐怖そのものだ」
「あのローブを僕にくれた火葬屋は、とても卑屈でした。彼がそうなったのもわかる気がします」
「まったくだ。必要とされている仕事だからこそ、彼らが存在するというのに。それを忌み嫌うなど、愚かな話だ……おっと、すまない、本題はそこじゃなかったね。火葬屋の話はやめて、ロウの話をしよう」
ヒトヒラ先生が診療室の机の前に座ると、病気でもないのに、春樹はこれから治療を受けるかのようだった。
机にはたくさん書類が乗っていて、さらに扇風機も回っていた。そばの棚には薬の入った大きな瓶が並び、向かいの壁にはカーテンをひいた大きな窓があった。黒い塔という過密な都市において、大きな窓はとても珍しく、贅沢なものだった。ヒトヒラ先生の診察室は明るく、清潔で、カーテンを開ければ、明るいひだまりの庭が広がっているような気さえした。もちろん窓が大きかろうが、小さかろうが、陽光の差す可能性などどこにもない。眼下に広がっているのは、雑踏と、ビニール袋と、ひび割れた配管のせいでできた水たまりとが、そこかしこに転がっているクソみたいな街並みだということは、わかりきっている。
席につくと、ヒトヒラ先生は髪留めを外した。きつくまとまっていた髪が、頭の後ろでパラパラと広がった。それからメガネを外して机の上に置くと、先生が急に別人になったかのようで、春樹はちょっぴりドギマギした。待合室にいた時、女性の患者がやけに多いことに気づいてはいたけれど、その理由がいまわかったような気がした。
「さて、春樹君、薬を渡す前にもう少しだけお話をしようか……」
ヒトヒラ先生は言った。
「『シュオの夢』について、君はかなり気にかけているようだ。それに、夢のことを知っているようでもあった」
「僕も同じ夢を見ていました」
春樹は、家族と家政婦の鈴子さん、それと主治医以外に夢のことを打ち明けるのは初めてだった。ヒトヒラ先生は、眉根をよせたまましばらく春樹を見入っていた。僕の瞳の色を念のため確認しているのだろうと、春樹はすぐに感づいた。
「君は、その……人間だ」
ヒトヒラ先生は言った。
「我々シュオとは別の生き物だ。シュオの夢を見るなどありえない。なにか思い違いをしているんじゃないかな?」
「一年間、毎晩おなじ夢を見ていました」
春樹は続けた。
「夢の中の僕は、僕ではありませんでした。ロウのように女の子というわけではありませんが、それでも別の誰かです。ボロボロの服を来た農民に囲まれて、家族とともに火をつけられました。農民たちは、僕のことをアカメと呼んでいました」
「そうだな……」
春樹の話を聞くヒトヒラ先生は、困ったような顔つきだった。
「君をうそつき呼ばわりしたくないのだけど……やはり信じられないというのが正直なところだ。前例のない話だ……少なくとも私は初めて聞いた」
「でも、本当なんです」
春樹は言った。
しばらく考え込んでからヒトヒラ先生は続けた。
「うん……ひとまずはその話を信じるよ。否定したところで、話は進まないからね。君は、もうその夢を見ていないようだけど、体に変化はないかい? たとえばなんだけど、体が異様にゴツくなった、とか……」
「いえ、何も……」
ご覧の通りの体格ですとばかりに、春樹は両腕を広げてみせた。
「むしろ最近になって痩せたくらいです」
「そうか……やはり、なんというか……ちがう現象のような気がする。しかし君の夢の内容は、あの悪夢そのもので……うぅむ……わからないな」
「僕が、『ケモノの戦士』になっていないのが不思議なんですね」
「もちろん、人間の君がなるはずもない。それはわかっているのだが……君は……どうしてここに来たんだい?」
「え? それは、ロウの薬を……」
「そうじゃなくて」
ヒトヒラ先生は言った。
「どうして君は黒い塔にいるんだ、という意味だ。やはり、その夢と関係があるのかな?」
「まさか!」
春樹はすぐさまに答えた。
「誘拐されたんです! 自分から黒い塔に来たわけじゃない」
「誘拐? いったいなぜ?」
「それは……」
春樹は口ごもった。果たして、今日知り合ったばかりの先生に自分の秘密を打ち明けてよいのかわからなかった。どんなに親切でも、本当の意味で僕の味方になってくれるのかなんて、やっぱり未知数なのだ。
「最近、犬面のニショウが人間の子どもを探していると聞いた。君のことかな?」
春樹は、額から汗が浮かぶのを感じた。いちばん勘付かれちゃいけないところに、勘付かれてしまった。やむを得ないとはいえ、やっぱり人間の僕が、ここの住民に正体を打ち明けちゃいけなかったんだ。
「安心しなさい」
先生は、努めて穏やかな調子で続けた。
「君のことを戦士たちに知らせたりしないよ。彼らに逆らうことなんてしないほうがいいんだけど、そのせいで子どもが殺されるようなことがあったら、私も目覚めが悪いからね」
「僕は、動物面のテロリ……じゃなくて、戦士たちに誘拐されて黒い塔に来ました」
春樹は観念して言った。
「僕の血にヤツらを倒す力があるからです」
今度は、ヒトヒラ先生が動揺する番だった。先生が眉根をよせて春樹を見たおかげで、その額はしわくちゃの紙のようだった。先生は、明らかに驚愕していた。
「春樹君……君は、不死身の戦士の殺し方を知っているのか? いや……知っているからこそ、『血』という言葉が君の口から出てきたのだろう」
「先生も知っているのですか? ヤツらを倒す方法を?」
「あぁ……私は、この塔で医療免許を授かっている立場上、彼らと交流がある。早い話が、彼らの主治医なのだ」
「不死身の生き物に医者が必要なんですか?」
「死なないからといって医者が不要なわけじゃない。むしろ、死ねないからこそ、医療が切実に必要な場合もある。だが、そのことを私の口から語ることはできない。秘密にしておかなければならないことが多いからだ。血に関することは、とくにそうだ……正直なところ、君とこの話をしているだけで、命の危険さえ感じているくらいだ。戦士たちは、塔の住民に手を上げることは基本的にないが、口の軽い者と裏切り者には容赦しない。だが、春樹君、それでも私は君と話をしたいと思う。じつに興味深い……もっと君の話を聞かせてほしい」
ヒトヒラ先生は、春樹の目の前に自分の顔を差し出さんとばかりに、体を乗り出してきた。