{ 16: 豪華病室 }
すべて夢だと思いたかった。世界でもっとも夢を憎んでいる春樹ですら、夢のほうがマシだと思った。たとえ自分が焼き殺される悪夢であっても、夢であるかぎりそれは現実じゃない。でも現実で起こった悲しい出来事は、それがいかなることであっても、僕の心に深くて長いキズを彫りつける。ましてや、悪夢以上の現実なんて、耐えられそうにない。
病院で目覚めたとき、カンパニー・タワーで起こったことは現実だったと春樹は悟った。もし夢であったのなら、我が家の布団で目覚めているのだから。いつものようにバケツ一杯分の汗でシーツをぐっしょり濡らし、秋人が「またか!」と言いながら、勝手に部屋へと入ってくるのだ。
でも、秋人が姿を現すことはなかった。代わりに、あの光景がまぶたの裏に焼き付いて見えた。秋人が、犬仮面の男に首を掴まれている光景が……あの音だって鼓膜にこびり付いたままだった。秋人の首から漏れ出たゴキリという音が……
秋人は無事なのだろうか? 秋人だけじゃない。父さんは? ふたりとも無事ではないだろう。でも、生きてさえいれば……
ここはどこだろうと、と春樹は思った。病院で寝ていることはわかるけれど、それ以外なにひとつ状況がわからなかった。やがて意識がはっきりしてくると、春樹はベッドから体を起こした。とたんに部屋の扉が開いた。春樹が起きるのをずっと監視していたかのようにドンピシャだった。
「やあやあ! 意識を取り戻したようだね。よかった、よかった」
男はずかずかと病室に入ってきた。
「ずっと寝たままだったから、心配してたんだ」
ボサボサの髪の下にウェリントンの眼鏡……白衣を着ている……どこかで会ったっけ……? やけに親しげだ。中年にもかかわらず、子供のようにくったくのない笑顔……
「僕は白衣を着ているけど、医者じゃないよ」
春樹が目を細めてぼーっと見てると、その男は言った。
「僕のことを覚えているかな? 自然融合炉を案内してあげただろ」
男は、病室備え付けのデスクに置いてあった春樹のメガネをとってくれた。壊れたはずのメガネは、誰かが修理してくれていた。
そうだ、思い出した……この人は……
「ユウナ……博士ですか?」
春樹は、メガネを受け取りながら言った。
博士は、にっこり微笑みながらうなずいた。
博士のすぐうしろに二人組の男がいた。二人は博士のあとについて部屋へ入るなり、扉を閉めてしまった。護衛だろうか……バン隊長と同じチョッキを着ていて、ともに背が高かった。ひとりは、白髪まじりの短髪で、人質救助のためロビーへ駆けつけた治安隊のひとりだった。もうひとりは、さらに背が高く、その一方で、比べれば細身だった。春樹は、杉の木のような印象をその人におぼえた。ただ、どんなに屈強そうに見えても、身長二メートルをゆうに超す大男から再三襲われたあとでは、ふたりとも平均的な成人男性とたいして変わりないように思えた。
博士は、部屋の片隅にあったデスクから椅子だけ持ってきて、ベッドのそばに座った。護衛の二人組は、そのすぐうしろに立って、黙って僕のことを見下ろしていた。そんな三人を順番に見やってから春樹は口を開いた。
「ここは?」
「カンパニー・タワー内の病院だ」
ユウナ博士は言った。
「病院……?」
ほんとうにそうだろうか? メガネをかけてやっと気づいたのだけど、春樹の入院している部屋はやけに豪華だった。
部屋の隅々で間接照明が焚いてあり、その柔らかな灯りがベッドや椅子の影を絨毯に投げかけていた。来客用の(あるいは患者が寝る時以外に使うであろう)ソファーが部屋の中央にあり、棚にティーセットとポットを用意している。さらにベッドのマットレスが尋常じゃないほどの反発力だと気づくにいたり、ここは病室というよりもホテルのようだと春樹は思った。しかし、ベッドから起き上がるための手すり、各種医療用モニター、医者を呼びつけるためのインターホンの存在が、ここはまごうことなき病室であることを物語っていた。
いい部屋だと思う。でも、なぜだろうか……居心地がわるかった。こんなにいい部屋なのに、おぞましいほどの寒気がする。いったいなぜ?
「体調はいかがかな?」
ユウナ博士が春樹の顔をのぞき込んだ。
「医者の話では、君はとてもうなされていたそうだ」
そうか、またあの夢を見ていたのか……シーツとパジャマが汗まみれじゃないのは、寝ている間に誰かが着替えさせてくれたからか?
「どうしてこんな豪華な部屋に?」
「シャン博士の身内をないがしろにするわけにはいかないからね、ヤガン晴夫くん」
ユウナ博士は、にっこりと微笑んでから言った。
「いや、シャン春樹くんと呼ぶべきかな?」
そうだった……春樹はおでこを手のひらでペシリと叩きそうになった。名前を偽ってカンパニーに侵入していたことを今になってやっと思い出した。この様子では、思い出すことはまだまだ多そうだ。あまりにショックな出来事の連続で、記憶の一部が吹き飛んでいるのかもしれない。
「あ、あの……そのことなんですか……」
「君がウソをついていたことを責める気はないよ」
春樹が何かを言う前に、博士はそれを遮って言った。
「そこまでして我が社に興味を持ってくれただなんて、むしろ誇らしいくらいさ。ただ、いま気にするべきは、そのことじゃないはずだ」
博士の言うとおりだと、春樹は思った。名前を偽っていたことも、そのことがばれていたことも、いまはどうだっていい。むしろ秋人と父さんとの関係を説明する手間が省けたくらいじゃないか。それに、ここがどこかもどうだっていい。どうして僕は、部屋がホテルのように豪華であることを気にしているんだ? そんなことよりも、まず訊くべきは……
「秋人は……父さんは無事なんですか? い……」
春樹の声はふるえていた。
「生きているのですか?」
ユウナ博士は黙って春樹を見ていた。春樹は、博士が何か言うのを待った。でも、博士は黙ったままだった。どうして、なにも言ってくれないんだ? 博士がなにも言わないものだから、春樹は掴みかかりたくなる衝動を抑えなければならなかった。いや、もしかしたら博士は何かを言おううとしていたのかもしれない。事実、何かを言い始めていたようだ。でも春樹には、博士の口がゆっくりと……まるで亀が歩くようにゆっくりと動いているように思えた。時間が濃縮して、泥の状態になって流れているみたいだった。早く聞きたくもあり、絶対に聞きたくもない……最後通達を待つ時間は、こんなふうに遅くなるものなのか?
「ふたりは無事なんですか!」
春樹はたまらず叫んだ。
「はやく教えてください!」
とつぜん大声を出したものだから、博士はビクリと体をこわばらせた。対して護衛のふたりは、杉の木のような男の片眉がわずかにピクリと釣り上がったくらいで、特別な反応はなかった。合わせて四本の足を病室の床に根付かせようとしているかのように、背後でガッチリ手を組んでその場に立っていた。
「落ち着いて、春樹くん」
博士は言った。
「そんなふうに興奮されちゃ、こっちだって何も言えないよ。一度ゆっくり息を吐くんだ。その様子だと過呼吸を起こしかけている」
春樹は、言われるがままゆっくりと息を吐き、なんとか呼吸を整えた。
「そうだ、ゆっくりと吐き出して。吸って……もう一度ゆっくり吐いて……うん、いい調子だ。ふたりとも、生きてるよ」
「生きてる?」
春樹は博士の言葉をくり返した。
「生きている」
博士も繰り返した。
「ただ……もう一度、深呼吸するんだ……うん、落ち着いて聞いてほしい。二人は生きているが、まだ意識を取り戻していない。とくに秋人君は重症だ。このまま目覚めないかもしれない」