{ 21: 健康生活(2) }
気がつくと、春樹は自分のベッドで寝かされていた。
ハリ孝之は帰宅して、自分はぶじ朝を迎えたのだと期待して部屋を見渡したが、さきほどと同じく、彼は椅子に座って春樹を見つめていた。
「大丈夫か?」
ハリは、心底心配したように春樹の顔をのぞいた。
「ずっとうなされていたんだぞ?」
春樹は何も答えなかった。ハリから目を背け、その代わりというわけではないけれど、先ほど吐いた場所をなんとなく見ていた。
信じられないことに、絨毯はシミひとつ残っておらず、すっかりきれいになっていた。この短時間で掃除などできるわけない。あんな風にいつも汚してしまうのに、毎度、新品のように絨毯が蘇るのが疑問だったけど、その答えがついにわかった。なんてことはない、新品に取り替えていただけだ。ご苦労なことである。
嘔吐の臭いもなく、部屋は何かしらのアロマで満たされていた。鼻がくすぐったくなるようなこの部屋は……いまや春樹の寝室となったこの部屋は、カンパニー・タワーのテロ直後に入院していたのとおなじ病室だった。そして、血の採取ために日々拷問を受ける春樹が、治療と診察をここで繰り返しているという点において、いまだ病室のままであった。
「まさか、たった一発で失神してしまうだなんて……」
ハリは、たいへん申し訳なさそうに言った。
「疲れが溜まっているようだね。もう少しだけ休もう」
「すこし休む」ということは、「またそのうち再開される」ということである。
「そうだな……ただ待っているのも退屈だし、話をしよう」
春樹が無反応なのにも構わずハリは続けた。
「私が勝手にしゃべるだけだから、君は聞いてくれているだけでいい。単なる昔ばなしだから。私と、あのバケモノどもにまつわる話だ……」
ハリ拷問官は、椅子に座ったまま足を広げ、前にかがみ込むと、腕を膝の上に乗せた。そんな状態でも、ヒョロリと手足の長い彼は、立っているときと同じく木のように見えた。
「春樹君と私には、ちょっとした共通点がある。私も孤児なんだよ。君とおなじように、子供のときに両親を失い、他人の家庭で育てられた。戦争孤児というやつだ。君が生まれる前のことで、まったく実感がわかないかもしれないが……当時、東京は戦争状態にあった。人間とあのバケモノどもは、この街で血塗られた戦いを繰り広げていたんだ」
話を聞かずに無視しているはずの春樹がぴくりと反応するのを、ハリはさもおかしそうに眺めていた。
「そのころはテロも日常茶飯事で、親を失う子どもは多く、私たちもそのなかの一人でしかなかった。私は当時十一歳で、弟はまだ七歳だった。あぁ、そういえば、もうひとつ君と私の間に共通することがあったな。私にも弟がいるんだよ。君と秋人君には血縁はないが、私たちの場合はじつの兄弟だった」
「私の養父は、シャン博士の同僚なんだよ」
ハリは続けた。
「偶然なんかじゃない。そのころ、カンパニーが戦争孤児を引き取る活動を始めていたからだ。もう感づいているだろ? 君が孤児となった原因も私と同じはずだ。君の本当の親も、秋人君の本当の親も、テロの犠牲者なんだよ」
春樹は思わず、体を起こした。そんな話、いままで聞いたことがなかった。
「やはり、聞いていなかったのだね。ムリもない……シャン博士が君に真相を教えないのにはワケがある。あるいは大人になってから話すつもりだったのかもしれないが、博士がバケモノのことを秘密にしていたのは、君たちが子どもだからじゃない。だが、それは話の本題でないし、私の口から話すことでもないだろう。我々人間とヤツらとの関係を知れば、おいおい理由も理解できるはずだ……この世には語られない歴史、あるいは語ってはいけない歴史があるとだけ今は言っておこう」
ハリは続けた。
「私と弟はカンパニー・タワーで暮らしていたんだ。タワーには、社員のための住居があるからね。それどころか、学校もあれば、病院さえもある。そこで私たちは何不自由なく、養父母のもとで育っていた。正直に言ってしまえば、タワーでの暮らしは地上で暮らしていたころよりも、充実して楽しいものだったよ。だから大人になっても、外には出ず、治安隊に入隊したのさ。テロで両親を失い、カンパニーに育ててもらった者としては、それほど不思議な選択肢ではなかった。命懸けの仕事にちがいないが、それでカンパニーや育ての親に恩返しできるならなんてことはない。弟も先の戦いに参加し、立派に戦ってみせた。春樹君は、誰よりもそのことを知っているはずだ……」
知っている? 僕がこの男の弟のことを?
「私の弟の名は、バン貴文だ」
ハリは言った。
「ま、まさか……」
春樹は愕然とした。
「バ……バン隊長?」
ハリはうなずいた。
「バン貴文と私は、血を分けた兄弟だ。別の家庭に引き取られたから名前がちがうんだよ。シャン博士のように、同時に二人以上引き取れる人は稀だ。それでも大した問題じゃなかった。私たちは、カンパニー・タワーで育ったのだから。ずっと一緒だった。それなのに……」
ハリは、その両手の中に顔をうずめていた。泣いているわけではないけど、わずかに肩が震えているのはわかった。春樹はだまってその様子を見ていた。
「弟はいいヤツだっただろう?」
やがて手の中からハリは顔を上げた。
「悲しいことだよ。弟が命をかけて守った君を殴らないといけないだなんて……」
「そんな話を聞いて、僕があなたを好きになるとでも?」
春樹は言った。
「いや、その逆だ」
ハリは首をふった。
「私はあのバケモノどもを絶対に許さない。ヤツらをこの世界から一掃するまで、君を殴りつづけるつもりだ。そんな私を心の底から呪ってほしい」
「そんなことはどうだっていい……」
春樹は言った。
「ここに来てもう一ヶ月が経ちました。秋人は……僕の弟は目覚めたんですか?」
「まだだ。彼はずっと意識不明のままだ」
「秋人に会わせてほしい……話せなくたってかまわない。せめて、顔だけでも見たいんだ」
「すまない。面会の許可はおりていない」
「父さんは? もう目覚めているんだろ? なら、父さんに会わせてくれ……」
「それもだめだ。シャン博士も重体で入院している。面会は許可できない」
「うちに帰らせてください。きれいな服も、美味しいごはんもいりません。ここは、人間の住むところじゃない。ちゃんと、血は提供しますから……」
「だめだ。君の命を守るためにも、ここにいてもらう。あの狐面の女が、君の血の秘密に感づいているかもしれない。もしそうなら、ヤツらは君の命を狙うだろう」
「なら、せめて電子工作がしたい。僕のドライバーとニッパを返してください」
「だめだ!」
ハリは突然立ち上がった。目の前に立ちはだかった大男に、春樹はビクリと体をふるわせた。
「もう十分休んだだろう。さぁ立つんだ。一緒に部屋を移動しよう。今日もきちんと日課をこなしてくれよ。期待しているからな」
ここはとても清潔で豪華な部屋だけど、テロの直後に目覚めてからずっと、春樹はどうしても気に入ることができなかった。その理由を、たったいま理解した。この部屋には、窓がなかった。風を通すための窓、外を眺めるための窓がないのだ。あるいは、飛び降りるための窓が……