{ 43: ジューケー }
ドンドンドンドン! どんどん!
深夜にもかまわず、春樹は、「一日楽医院」の扉を力いっぱい叩いた。でもどんなに「助けてくれ!」と叫んだところで、白衣をまとったヒトヒラ先生が聴診器と薬の入ったカバンを提げて病院から飛び出てくるなんてことはなかった。
「やっぱりまだ来ていないのか……」
この街で診療する日になると、ヒトヒラ先生は、下の階の街から登ってきて、屋台で朝食を済ませてから病院を開けるそうだ。さっきうどんをすすっているとき、ロウがそう教えてくれた。その話を疑ったわけじゃないけれど、もしかしたら今夜のうちに先生がここに来て、院内に泊まっているかもしれないと春樹は思った。その一縷の望みにかけてヒトヒラ医院の門を叩きに来たけれど、けっきょくムダだったようだ。
「やっぱり二十一階の街まで降りなきゃいけないのか? でも道がわからない……ロウのアパートに引き返すべきか?」
いっそ、そこらへんに落ちているコンクリートブロックで窓ガラスを叩き割って、病院の中に入ってしまおうか? そうすれば、せめて薬だけでも……
「冷静になれ」
と、春樹は首をふった。
たとえ薬の棚を見つけたところで、春樹にはなんの薬かわからないし、あの状態のロウにどんな薬が必要なのかもわからない。悪夢を見るようになったころ、春樹もいろいろな薬をのまされたけれど、今ではその名前も思い出せなかった。
やはり闇医者にたよったほうがいいいのでは? 正規の医者でなくとも、鎮静剤の注射くらいしてくれるはずだ。鎮静剤なんてたいして役に立たないことは春樹もわかっていたけれど、たとえわずかでもロウを楽にしてやりたかった。
あの夢をはじめて見たときの恐怖と絶望をよく覚えている。村人に囲まれ、逃げることもかなわず処刑におびえ、家族もろとも燃えたぎる穴に落とされた。火の痛みにあえぎ、死を望んでもそれは叶わず、苦しみ続けた。そして苦しみぬいた末に、朝めざめるのだ。たとえ目を覚ましても、夢の内容は決して忘れられなかった。あんな思いは二度とごめんだし、ロウがそれで苦しむのだって耐えられない。
でもロウは「闇医者じゃダメだ」と言った。闇医者でなく、ヒトヒラ先生を呼んでほしいと……
春樹は、ローブのフードをかぶり直した。なんで火葬屋のローブを着ているのか、自分でもわからなかったけど、これもロウに指示されたことだった。いまは、あいつの言うとおりにしよう。
「まずは、二十一階に続く道を見つけなくちゃ」
ロウは、「ジューケーに行け」と言っていた。果たして道はそこにあるのだろうか……
◇
建てものはとても暗く、春樹は入るのをためらった。
小さな商店がひしめき合うそのショッピング・モールは、昼間こそ買い物客でごったがえしているけれど、夜ともなれば店のシャッターがすべて降りていて、誰もいない通路は、かつてさまよった「牢獄の森」を春樹に思い出させた。モール正面の大通りだって、夜市の屋台とテーブルであふれていて、仕事帰りや家族連れの住民で賑わっているのだけど、今となっては片付けもすっかり終わったあとで、ゴミが散乱しているだけのさみしげな道だった。もはやぐでんぐでんの酔っ払いですら無事帰宅して、寝入っているころだろう……
春樹は、ショッピング・モールの入っているテナントビル、通称「ジューケー・マンション」まで来ていた。ショッピング・モールといっても、店主ひとりで店番しているくらいの小さな商店が軒を連ねているだけで、その実、この街で特に大きな雑居ビルにすぎない。一階は、雑貨屋、金物屋、服屋、そのほか生活用品やスナックを売る店がところ狭しと並んでいた。壁に張ってある案内板を見る限り、二階は、食堂だのレストランだのがあるようだ。三階から上はどうなっているか知らないが、怪しい連中がこのマンションを出入りしているところを春樹はたまに見かけていたし、今もそういった者たちが建てもの入り口付近でたむろしている。奥まで伸びる通路は、ただひたすら暗く、怪物の口の中にほおりこまれるかのようだった。それでも春樹は、マンションの奥へと進まなければならなかった。
マンション入り口は、開いていた。夜間でも立ち入り自由のようだ。深夜でも開店している店があるのだろうか? しかし外から見たときと変わらず、奥に進んでも、どの商店のシャッターも閉まったままで、通路はいっそう暗くなっていった。
一昨日ロウとこのマンションに来たばかりで、中の構造はまったく把握していなかった。あのときは一階のフロアを通り抜けただけで、モール内を探索したわけじゃない。建てものの裏通りに出て、東京を見渡せる公園広場まで行くための道中でしかなかったのだ。
途中、二階へと続く階段を見つけた。階段は、箱のように小さな店二つに挟まれポツンとあった。非常灯の黄緑の光が、階段の踊り場を照らしていた。その光の下には、「レストラン「清真」 階段登ってすぐ!」の看板が掲げてあった。
非常灯の光とは別に、紫やオレンジの色も踊り場の向こうから漏れていた。おそらくネオン灯の光だろう。なにやらお酒やら香辛料やらの匂いに紛れ、かすかな笑い声と音楽の気配も感じたけれど、そちらに向かって行く気にはなれなかった。どちらにしろ、春樹の探しているのは、地下へと続く道だった。
迷いながらも建てものの中央まで来ると、やけに広い空間を見つけた。どうやら市場のようだ。昼間であれば野菜や果物が並んでいるのだろうけど、当然いまはだれもおらず、空っぽの棚が並び、ところどころキャベツやレタスなどの野菜くずが落ちているのみだ。その市場のさらに中央まで歩いていくと、春樹はほっと胸をなでおろした。
「やっと見つけた……」
果たして、それはあった。地下へと続く階段だった。