{ 13: 血のロビー }
いつも夢で見ているのと同じ光景だった。足元に黒焦げの死体があって、動かない。あたりは夜のように暗く、本当にあの夢の中にいるようだった。電気室で人が殺されたことも、動物の仮面をかぶったバケモノが暴れていることも、すべて夢だと春樹は心のどこかで思っていた。そう思いたかった。でも目の前で新たにふたり死んだ。ひとりは殴り殺された。ひとりは燃えて死んだ。いまだけは、夢の中のほうがありがたかった。
火事にはならなかったけど、そんなこともうどうでもよかった。というよりも、何もかもどうでもよくなっていた。ここから動くつもりも失せていた。一連の出来事に思考が追いつかず、もはや周回遅れだと感じた時点で、春樹はそれ以上考えられなかった。これからなにをすべきかなんてどうでもいい。秋人と父さんを助けに行く? このタワーから脱出する? どっちもムリだ。もし動物面に出くわそうものなら、今度こそ僕は殺される。やつらに抵抗する力もなければ、その勇気もないことを春樹はたったいま思い知った。
「ん……?」
気のせいだろうか……ふいに扉が開いて、それから閉まった音がした。鼓膜を微かにふるわせたその音は、地球の裏で起こったことにしか思えなかったが、「聞こえた」と思ったのは確かだった。春樹は顔をあげた。
「誰だろう……?」
少なくともテロリストではないはずだ。あれだけ傍若無人に暴れている連中が、僕の存在を気にかけて隠れたりしないだろう。とすると、テロの現場から逃げてきた人たちだ。自分とおなじ境遇の者が近くにいるかもしれないと気づくにいたり、春樹は再び考える力を取り戻していた。
春樹は死んだ隊長のチョッキをさぐった。武器はないかと、春樹は胸ポケットと思わしき穴に手を入れた。牛仮面に刺したはずのナイフはいつの間にか消えていたし、仮に焼け焦げた死体の下敷きになっているにしても、それを探り出すつもりはなかった。世界地図の陸地くらいの面積で胸一帯を占めていた隊長の血は、すでにかたまり始めていたものの、春樹の手にべっとりくっついた。
ここが暗くてよかったと春樹は思った。もしも明るいところでこれだけの量の血を見れば、トマトにさえ怯える「赤色恐怖症」の春樹は、気絶したっておかしくない。とはいえ手がまったく震えていないわけでもなく、バン隊長の遺体を探るのは難航した。まだまだ温かい隊長の胸に手を一分ほど潜らせ、やっとのことでチョッキの内ポケットから小箱のようなものを取り出せた。なんと、荷物検査の時に隊長に没収された工具箱だった。すこし迷ったけど、春樹はマイナスドライバーだけ取り出すと、ズボンのポケットにしまった。武器にするというよりも、いつも持っているものを身につけることで安心できると思ったのだ。
「まさかマイナスドライバーをお守り代わりにする日が来るだなんて……」
ナイフは別のところで見つかった。隊長の足首にナイフを収めるベルトが結ばれていて、そこに一本だけ刺さっていた。春樹が足元を探ったのは、そこから隠しナイフを取り出すスパイ映画的な演出をしょっちゅう見ていたせいだ。
薄いナイフだった。はさみと爪切り、それと針金を切るためのニッパー以外の刃物なんてとんと縁がないので、これがナイフとして本当に薄いのか春樹には皆目検討もつかない。けれど、すごく薄いと思った。それに短いし、正直なところドライバーよりも頼りないくらいだ。春樹は、これだけ小さいならお尻を斬ることはないだろうと判断し、ベルトの背中側にナイフをはさんだ。
春樹は、バン隊長の顔を最後に見た。こういうときはどうすればいいのだろうか。この場で拝むのか、隊長のまぶたをやさしく閉じるのか、ありがとうございましたと声をかけるのか……
結局なにもせずに、春樹はその場で立ち去った。渡り廊下を匍匐前進で渡っていたとき、春樹は「自分だけは大丈夫、僕は家族を助けて英雄になれる」と信じていた。でもそれはただのカン違いだ。英雄になりたければ、命を賭ける必要がある。カジノのテーブルに叩きつけるべきは、札束やチップなどでなく、僕自身なのだ。バン隊長の顔を見て、春樹はそう思った。
◇
停電中だから電子錠の鍵がかからないのだろうか? 社員証を持っていない春樹でも、オートロック式のオフィスにすんなり入ることができた。エレベーターホールにもっとも近い部屋はここなので、さっきのドアの開閉音はきっとここからだろう。
オフィスはもぬけの殻だった。デスクは整然と並んでいて、筆記用具やら、書類やら、チョコレートの箱やらがその上に散乱しているものの、テロリストたちが表敬訪問しに来た形跡はなかった。ここで働いていた人たちは、騒ぎと同時にすばやく避難したのだろうか? 普段から、こういったテロ行為に対する避難訓練をしていたのかもしれない。
春樹は、デスクの間をずかずか歩いてオフィスの奥にすすんだ。我ながら慎重さを欠いていると思ったけど、今さら逃げ隠れする人たちを相手にビクビクしているヒマもない。
「誰か……いるのか?」
春樹がささやくように声をかけたそのとき、その「誰か」が叫びながら春樹に襲いかかってきたので、春樹も跳ね上がって叫んでしまった。
デスクの下に隠れていたリク勇太は、春樹があらわれると同時に立ちあがり、手近にあった椅子を両手で持ち上げた。進学校に通う生徒の中ではとびきり力持ちな勇太でも、重いオフィスチェアは制御できなかったようだ。春樹が一歩さがっただけで、椅子は空を切って、床のカーペットを叩いた。はねえった椅子が腰にぶつかったけど、ちょうどクッションの部分だったので助かった(ちなみにクッションは、椅子だけでなく、春樹の腰回りにもあった)。
「やめろ!」
春樹は言った。
「僕はテロリストじゃない!」
よく見ると、デスクの影にもうふたりが伏せていた。暗がりで見えづらいけど、由比と明日香にちがいなかった。勇太をはじめ、三人とも僕の姿を見て泣き叫んでいた。
「静かに!」
春樹は、なるべく外にもれないような、それでいて少し大きめな声を出して三人を押し留めた。
「うるさいぞ! だまれ、だまるんだ! 大丈夫だから!」
自分も叫んだことそっちのけで、春樹は三人に命令した。春樹のことを思い出したのか、まもなく彼らの声は止んだ。なにか信じがたいものでも見るかのように僕の顔を眺めたまま三人は固まっていた。
春樹も落ち着きをとりもどすと、三人の姿を改めて見た。勇太は僕をにらんでいた。震える彼の手は、無意識のうちに新たな武器を探してデスクの上をさまよっている。由比と明日香は、床にへたりこんだまま抱き合って僕を見上げていた。春樹はホッと胸をなでおろした。この三人とまた会えるとは! 今日会ったばかりの人たちなのに、春樹は、離れ離れになった家族と再会したような面持ちになった。
「ど、ど……」
春樹の頭を叩き割ろうとした時の形相そのままに勇太は尋ねた。
「どうしてお前がここに?」
「発電施設を抜け出して、僕は下のフロアにいたんだ」
春樹は答えた。
「そこで、ユウナ博士の命をねらうテロリストがタワーに侵入してきたのを目撃して……みんなが心配で戻ってきたんだ。上でいったい何があったんだ?」
「発電施設に、仮面をかぶった人たちが押し寄せたの」
口火を開いたのは明日香だった。
地面にへたりこんだままだったけど、由比の体を離してから、しっかりとした口調で話し始めた。
「その人たち、いきなり暴れ初めて……そこにいた作業員の人たちが次々におそわれた……何がなんだかぜんぜんわからなかった。私たちは、たまたま離れた場所にいて……融合炉の制御端末の下に隠れることができて、やつらには見つからなかったの」
「それでどうなったんだ?」
「あのバケモノども、発電施設の奥に進んで、別のところに行っちまった」
明日香が話しているうちに落ち着きを取り戻したのだろう、勇太が説明を引き継いだ。
「たぶん、作業員たちを脅して、博士の居場所を聞き出したんだ。俺たち、やつらが戻ってくる前にここまで逃げてきた」
「秋人と父さんは?」
春樹は言った。
正直なところ、それだけが本題だった。
「まさかここにいないのか?」
「秋人は、俺たちといっしょに来なかった」
勇太は言った。
「どうして?」
「シャン博士のところに向かったんだ。シャン博士は、その時にはもう施設から退室していて……秋人は、オヤジに危険を知らせると言って……あいつ、バカだ。仮面のヤツらと同じ方向に走っていっちまった」
「父さんは、ユウナ博士といっしょにいるのか?」
「わからない……」
「そうか……」
春樹は、ため息をつきながら手近にあった椅子を引き寄せてそこに座った。それからすぐに自分のマヌケさに気づき、明日香たちに倣ってデスクの下にうずくまった。頭を高くしたまま話し込むのも、のんきに椅子に座るのも、走ってくる車に気づかない鳩と同じくらい抜けている。勇太もあわててデスクに隠れた。
「さっき、牛仮面の男がこのフロアにいた」
春樹は声を落として言った。
「君たちも騒ぎを聞きつけてここに隠れたんだろ? このままこの場所にいるんだ。誰かが来ても絶対に立ち向かうな。隠れているのが一番安全だ。僕は秋人たちを迎えにいってくる」
「まて!」
と、勇太が言った。
春樹の身を案じての「待て」というわけでなはないことくらい春樹はわかっていた。
「ここが安全だって? テロリストがこのフロアをうろついていたのに? 現に俺たちは、お前に見つかった!」
そう言われると自信はなかった。そもそも安全な場所なんてどこにもないだろう。
「タワーから脱出する気か?」
春樹はたずねた。
それが由比と明日香の同意を含めたものかはわからないけれど、少なくとも勇太はうなずいてみせた。
「だったら非常階段を下りればいい。東棟の奥にもあるはずだ」
「ふざけるな。仮面のヤツらは、きっと非常階段で移動しているんだ。見張りだっているかもしれない」
「なら西塔に行け」
春樹は言った。
「あっちの非常階段は、もぬけの殻だった。テロリストたちは、ユウナ博士のいる東棟に集中しているんだ。僕がここまで来たのと同じ道順で行けば、階段まで誰とも出くわさないと思う。君たちだけで行けるか?」
返事はわかりきったものだった。僕が三人の立場だったら、安全な道順を知っている僕にすがりつくだろう。
「君たちふたりはどうだ?」
春樹は、由比と明日香に顔を向けた。
「タワーから脱出するつもりなのか?」
「ここにいるのはイヤ」
明日香は言った。
その明日香につられただけなのかもしれないが、由比もコクコクと首を縦にふっていた。