月面ラジオ {63 : 三〇七 }
あらすじ:木土往還宇宙船の完成式典に(無断で)参加した月美は、ひとり船に取り残された。
◇
芽衣たちとの通信が途切れた。ディスプレイを兼ねた運転席正面の窓には、芽衣とアルジャーノン、ルナ・エスケープの同僚たちの姿がさっきまであったはずなのに、いまはユエひとりが映っている。真っ赤なドレスを着たユエが急に現れたものだから、月美は目を見張った。いったいどういうことなんだ?
「どうしてあなたがそこにいるの?」
ユエは月美をにらんでいた。
「どうしてと言われても……」
木土往還宇宙船にとり残されてしまい、散々さまよった挙げ句、この三〇七型機を発見したのだと説明して、ユエは納得してくれるだろうか?
「みんな急にいなくなって……通信もできなくて困っていたら、この小型船を見つけたんだ。こいつはユエの船か? 悪いけど、救助を呼ぶまで貸してくれないか? というか、よければ私の救助を……」
呼んでくれないかと頼もうとした時、月美はふいに口をつぐんだ。そういえば、芽衣はさっきなんて言ったっけ? 「木土往還宇宙船が動いていないか?」と月美に尋ねた。動いているかどうかなんて、ここからじゃわからないけど、もし船が動いているとしたら、それを動かしている者がいるということだ。
「ユエ……いまどこにいるのか訊いてもいいかな?」
「操舵室よ。木土往還宇宙船のね。」
ユエはあっけらかんと答えた。
「そんなところでいったい何をやっているんだ?」
月美は、念のため訊いておいた。ユエだって私と同じように遭難しているのかもしれない。
「操舵ってところかしら。」
ユエは答えた。
「私、この船をもらうことにしたの。」
「の、の……」
月美はうまく舌が回らなかった。
「乗っとるってことか?」
「そうよ。クルーとして乗船できないなら、いっそのこと船長になろうと思ったの。ホントは、私以外みんな船を降りてもらったはずなんだけど……」
ここでユエは一呼吸だけ間を置いた。
「おどろきね。どうしてあなたが残っているの?」
むしろ月美が知りたいくらいだった。おかげで医務室で凍え死ぬところだった。
「せっかくこの日のために、セキュリティに細工したってのに……まさか、送迎船の乗客を数え間違える人がいるだなんてね。」
「それなんだけど、ユエ……」
月美はおずおずと進言した。
「数え間違えじゃないんだ。私は、その……式典の招待客じゃない。」
「招待客じゃない?」
「うん。」
「まさかパーティにもぐりこんでいたの?」
ユエにとって、それは盤外からの信じられない一手だったのだろう。
叫ぶように声をあげた。
「なんてオソマツな警備なの!」
セキュリティに細工した人間の吐くセリフじゃなかった。むしろ、月美がすんなりパーティー会場に潜り込めたのは、ユエが細工していたせいではなかろうか。
「船を乗っ取ったあとはどうするつもりだ?」
月美はたずねた。
「太陽系の彼方にこの船をほおり出してやる。」
「せっかく作ったのに?」
「作ったのは、私の力を証明したかったからよ。完成したのならもういらない。それに……それに……」
ここでユエは初めて月美から目をそらした。ユエはしばらく何も言えないでいたけど、月美は口をはさまずに待った。
「この船があると、彦丸は遠い世界に行ってしまう。」
それからすぐにもとの調子に戻った。つまり、上から目線で、じつに恩着せがましい。
「三〇七はあなたにあげる。月面ラボのそばに着陸するよう設定してあるから、あなたでも家に帰れるわ。」
「こんな小さな貨物船で月面に降りられるのか?」
「不時着なら問題ないわ。」
「問題ないねぇ……」
不時着それ自体がかなりの問題を含んでいる気もするけれど、今はそんなこと言っても何も始まらない。
それより月美は気になることがあった。
「三〇七は、脱出のために用意していたってことだろ? 私がこれを使ったら、ユエはどうするんだ?」
「どうしようもないわ。あなたがこの船に乗っていた時点で私の計画は失敗したの。もう月には帰れない。」
ユエが手をふった。
「さようなら。さっさと脱出しないと、あなたも帰れなくなるわよ。」
「このまま船に乗って行くつもりか?」
「私は人類初の単独有人外惑星探査をやり遂げることにした。」
「死んじまうぞ?」
「死なないわ。」
ユエは言った。
「この船は完全循環型の宇宙船よ。エネルギーを得られる限り、中は地球そのもの。空気も、水も、食料も、循環システムの中で生産されつづける。いま積んでる燃料を使い切るその日まで、理論上私は数百年生きることができる。」
「おまえは地球に行ったことがないし、ひとりで生きたこともない。そんな旅、死ぬのと同じだ。つらいだけだ。」
「あなたがそれを決めないで。好きな人に会う勇気もないあなたが。」
「おまえは、ふられたから腹いせに彦丸の船を奪おうとしているだけだ。ただのワガママだ!」
「わたしはワガママと意地を燃料にして生きてきたの。それはあの人もおなじよ。あなたの出る幕なんて、初めからないの。どこか遠くで私たちを批判してなさい。」
なんて減らず口だ、と月美は思った。とても言い負かせる気がしない。
「すぐに脱出することね。」
ユエは続けた。
「この船が本格的に加速したら、冗談抜きで月に帰れなくなるわよ。私といっしょに宇宙をさまよいたいなら話は別だけどね。」
それだけ言うと、ユエは勝手に通信を切ってしまった。
「おい、ユエ! 話はまだ終わってないぞ?」
だが、返事は返ってこなかった。
「はぁ、まったく……」
ユエといい、ホークショットといい、勝手に話を終わらせてしまう人がなんと多いことか。姉の陽子もそうだった。最近では、月美の上司となったアーベル課長もそうだ。いい加減うんざりだ。そっちがその気なら私にだって意地というものがある。
月美は三〇七型機のハッチを抜けて、貨物室に降り立った。そのとき、芽衣から通信が入った。
「芽衣か?」
月美は言った。
「よかった! またつながった。」
芽衣は慌てていた。
「ねぇ聞いて、月美ちゃん。その船にユエが乗ってるかもしれないの。」
「乗ってるよ。さっき、あいつと話した。」
月美は歩きながら答えた。
「これから木星に出かけるってさ。」
「うそでしょ……」
「芽衣、悪いけど、またしばらく話はできない。ちょいとユエを連れ戻しに行ってくる。」
「ちょっとまって!」
芽衣は叫んだ。
「月美ちゃん、いったい何をするつも……」
月美が通信を切ると、芽衣の姿も声も消えてしまった。なるほど気持ちがいいもんだ、と月美は思った。
◇
木土往還宇宙船をさまよっているうちに、月美はもとの場所に戻ってきた。つまり、数時間前まで完成式典が開かれていたあの大広間だ。船は、月の夜側にいるらしい。展望窓のど真ん中に地球の丸い顔が覗いていた。人でごった返していたせいで、パーティの時はちゃんと景色を見ていなかった。今ならどこに行ったって、ひとりじめの特等席だ。
月美は、展望窓まで泳いで、地球を見ようとした。天井に頭をぶつける心配もないので、思い切り床を蹴って空宙へと飛んだ。かなり見当ちがいの方向へ飛んでいったけど、マグネティックソールで方向転換し、止まりたい場所にぴったり止まることができた。
「私もずいぶん宇宙にも慣れてきたな。」
ちょうど逆さ吊りのような状態になっていたけど、月美は感慨深かった。
そういえば、ここと似たようなところに以前も来たことがある。ラグランジュの展望台……アルジャーノンと出会った場所だ。
あれからもう一年も経ったのか。あのときアルは、天井からぶら下がりながら地球を眺めていたっけ。ちょうどいまの月美のように。
「さて……どっちに行こう? ユエに操舵室の場所を聞いておけばよかったな。教えてくれるとは思わないけど。」
月美はその場で回転して広間を見渡した。五層もの回廊があり、それぞれのフロアにいくつか扉があった。その扉は、それぞれ異なる場所へつながっている。大広間は、いわばハブのような場所なのだ。
そういえば、まだ行っていない場所があった……中庭のそばに、乗ったことのない(というよりも、乗ってはいけない)エレベーターがあることを月美は思い出した。いったいどこに行くためのエレベーターなのか気になっていたけど、案外、操舵室へと続く道なのかもしれない。
月美は、広間最上層にある扉の前に立った。ただ不思議なことに、この扉は固く閉ざされていた。こじ開けようとしてもこの扉だけピクリとも動かないのだ。
「どういうことだ? これもユエのしわざなのか。」
月美はさらに踏ん張って開けようとしたものの、一分ほど力んでいるうちにめまいがしてきて、中断せざるをえなかった。
「だ……」
月美は息も絶え絶えに言った。
「だめか。」
この先は、ただの通用路のはずだ。なのにこの扉だけこんなにも固く閉ざされているのは、この先にユエがいるからだろう。
月美はなんとかして開けたかったけど、その前に休まなければならなかった。踏ん張りが過ぎたようだ。まるで走り抜いたあとのように、息が荒い。まわりはこんなにも寒いのに、身体は熱っぽく、冷や汗が出てくる。顔から血の気が引いていく一方で、だんだんと吐き気が押し寄せてきた。
やがて、月美はこれが異常事態のように思えてきた。あきらかに体がおかしいのだ。いや、おかしいのは体というよりも周りの空気だ。
そう気づくにいたり、月美は恐怖でふるえた。
「まずい! 空気が抜かれているんだ!」
気分が悪いのではなく、これは減圧症の症状だった。まちがいなくユエのしわざだ。
考えてみればあたりまえのことだけど、ユエは月美を監視している。月美が木土往還宇宙船の中を歩き回っていることに気づいているはずだし、それはユエにとって都合のわるいことだ。ユエは、月美を排除するためにちょっとずつ気圧を下げていたのだろう。さっさと出ていかなければ、命の保証はないという脅しなのだ。それとも、私を気絶させたあと、三〇七型機に詰め込んで、宅配便のように月まで送り返すつもりかもしれない。
「こ、ここから出なくちゃ……」
もと来た道を引き返そうと、月美は回廊から吹き抜けの空間へ飛び降りた。でもそれが失敗だった。急に動いたせいで、体がよけいにひどくなったのだ。最下層のフロアに近づくにつれて、意識もだんだんと薄れていった。
「こ……ここまでやるか……ユエのやつ……」
慣性のまま吹き抜けを横切ったあと、月美は展望窓にぶつかった。指先ひとつ動かせない状態だった。自分は死ぬのかもしれない、と薄れゆく意識の中で思った。
そして後悔した。あのとき彦丸に話しかければよかった。あんなに近くにいたというのに……