月面ラジオ {70: 黒幕 }
◇
ネルソンは、滝の淵に立った。足元で川が唸り、水が真っ逆さまに落ちていく。ナイフでえぐったような谷があり、爆撃のような飛沫をあげる滝壺が、底にあった。見渡せば、乾いた大地に草木が生い茂り、それがどこまでも続いていた。草原に果てはない。
ネルソンが本当にいる場所は、ルナスケープ社の会議室だ。滝は、仮想空間で再現しただけの映像にすぎない。でも彼はとても気に入っている。故郷アフリカの景色だし、みながこの場所に敬意をいだいてくれる。こどものころ、ネルソンはここに来たことがある。仮想空間の映像でなく、本物の滝を家族で見に来たのだ。
ルナスケープの社長に就任してからというもの、毎週のようにここで会議を開いた。百人以上の人間と滝の上で話をした。ネルソンはここに人を呼ぶのが好きだった。たとえ怒りをぶちまけるだけの日にしても、この景色の中だと、すこし穏やかになれた。ほんのすこし、ではあるけれど。
とはいえ何事にも例外はある。できることなら招きいれたくない客も中にはいる。今から来る二人は、まさしくその例外だった。史上最大の宇宙企業である我が社の命運が、あの二人の掌にあったなんて、いまだに信じられなかった。
ネルソンは椅子に座り、一人ぽつねんと訪問者を待った。約束の時間が過ぎたころになって、一人目が会議室に姿を見せた。青いスーツの上に白衣を着た女が入室してきた。ルナ・エスケープ社の副社長、ドローレス・ホークショーだ。ホークショット教授は、ネルソンの南アフリカ国旗柄ネクタイに目を留めた。
「よぉ、ネルソン。あいかわらず変テコなネクタイだな?」
「あなたの会社こそふざけた名前だ。」
ネルソンは言い返した。
「いったい何度、訴えようと思ったことか。」
ネルソンが椅子をすすめる前にホークショットは円卓に座った。それから返事をよこした。
「大人げないな。あんたは、ルナスケープ社の社長なんだ。椅子の上でどっしりかまえてれば、それでいいんだよ。」
ふんっ、とネルソンは鼻を鳴らした。
「座っているだけで世界が動くものか。ところで、相方が来ていないようだが?」
「相方なんかじゃないよ。」
ホークショットは肩をすくめた。
「あいつが遅れている理由なんて知ったこっちゃない。」
「おなじ場所に住んでいるんじゃないのか?」
「普段から顔を合わせているわけじゃない。うちの社員に正体がばれないよう、月面ラボの管理人のふりをしているだけだ。」
「あれほどの男が、まさか僻地で管理人をしているとはな。どこを探しても見つからないわけだ……」
それからしばらくして、やっと二人目があらわれた。髭面の男だった。
男は、月面都市のメガシティシステムを築いた伝説のソフトウェア・エンジニアだった。いまはアノルドと名乗り、月面ラボに引きこもっているらしい。この私をこれだけ待たせて平然としていられる人間は、月に何人もいない。アノルドがその希少な人間のうちのひとりなのは、間違いなかった。彼も、椅子を勧められる前に勝手に座った。
「よぉアノルド!」
ホークショットが上機嫌に言った。
「やけに不機嫌だな?」
アノルドは、しかめっ面をホークショットに向けた。
「途中まで最高の映画だった。なのに、最後のオチで冷水を浴びせられたんだ。こんなにひどいことはない。」
「そうか? 感動的だったと思うけどな。」
「どっちだていい!」
ネルソンが口をはさんだ。すると、滝の音が止み、あたりの景色が静止画のように停止した。それが会議の始まりの合図だった。
「ふたりとも約束は守ってもらうぞ。事後処理は、すべて私の希望通りに進めさせてもらう。」
「かまわんさ。」
アノルドはムスっとしたまま言った。
「あんたの望むままに。」
ホークショットもうなずいた。
「こちらの約束を守ってもらえるならね。」
よし、とネルソンは思った。ふたりは確かに合意した。これで、会議の目的を半分以上達成したと言っても過言ではない。つまりはこういうことだ。「木土往還宇宙船が乗っ取られそうになった事実を、亡き者にできる」ということだ。ネルソンはこれから全力を上げて、ユエの起こした不祥事をもみ消す所存だった。
「それにしても……」
ネルソンは、十年ぶりのため息かというくらい深々と息を吐いた。
「くだらんいざこざに私を巻き込みくさって。」
「文句を言うな。」
ホークショットは言った。
「ユエの反乱を未然に防げたんだから。」
「それにしたって正規のやり方というものがある。」
「実際にエンジンが起動してたわけじゃない。危険は限りなく少なかった。そうだろ、ルートヴィヒ機関長?」
「まぁな。」
アノルドはうなずいた。
「エンジンが起動していると、俺はユエに報告しただけだ。それ以外なにもしちゃいない。」
「だが、彦丸のプライベート船に細工をしたんだろう?」
「細工をしたのは、木土往還宇宙船の予定航路情報だ。」
アノルドは答えた。
「それだけで十分だ。予定の航路からずれているのを見て、船が動いているとやつら勝手に勘違いしてくれた。」
「まったく! 我々は、宇宙の安全に日夜心血を注いでいるというのに……」
「位置情報を数ポイントずらすだけで済んだんだ。」
アノルドは、ヒゲをいじりながらぶつくさと言った。
「実際にあのデカブツが動くことに比べれば、だいぶマシだと思うが? それとも俺は、船がユエの手に落ちるのを黙って見ていればよかったのかな?」
「おちつけ、ふたりとも。」
ホークショットが間に入って言った。
「ぜんぶうまくいったのだから、よかったじゃないか。そうだろ、ネルソン?」
「部外者が勝手に船に乗っていたのを除けばな。」
「月美のことか? 流石に私もあせったよ。」
まるで他人事のようにホークショットが言った。
「ちょっとした手違いもあったが、すべて無事に終わった。船は依然あんたの手元にある。ユエも月に残って働いてくれる。みんな万々歳だ。それに、この賭けは私の勝ちだ。」
なんてイカれた話しだ、とネルソンは思う。史上最大の宇宙船を親子喧嘩の舞台にしたあげく、その決着の方法を賭けの対象にしていただなんて。つまり彦丸が自爆スイッチを押して船を止めるか、ユエが自分の手で船を止めるか、どちらが早いか、我々は賭けていたのだ。
「ユエが宇宙船の乗っ取りを企てている。でも、穏便に解決できる方法がある」とこの二人から話を持ちかけられ、それに乗らざるをえないとわかったときは、悪徳商法とわかっていながら契約を交わしている気分だった。だが、船を失わず、ユエも失わずに済んだのだから、それでよかったと思えるのもまた事実だ。
ちなみに自爆スイッチなんてものは、ハナから存在しない。そういうものがあるとウソをつき、青野彦丸に渡していただけだ。やつに信じ込ませるためだけに、テロリストが攻めてきたときの模擬訓練を受けさせたほどだ。ユエが船を乗っ取る以上に我々は慎重に計画し、彦丸とユエが二人きりで対峙できるよう舞台を整えたのだ。
「確認するぞ。」
ホークショットは続けた。
「彦丸が先にスイッチを押したのだから、賭けは私の勝ち。ユエに賭けていたあんたの負けだ。約束通り、往還プロジェクトから彦丸を外すのは勘弁してもうよ。」
「ふん。」
と、ネルソンは鼻を鳴らした。
「残念だがしかたない。私が勝てば、責任をすべてヤツに押し付けて、プロジェクトから外してやったのに。」
「そう言うな。」
ホークショットは、なだめるように言った。
「友人が旅立つんだ。気持ちよく送り出してやろうじゃないか。それにしたって、ネルソン、あんたは彦丸のことが嫌いなのか?」
「あれの身勝手さを知って、好きになる者などいない。」
ネルソンは言い切った。
「だが、あれの手腕と執念は高く評価している。外惑星だのなんだのにくれてやるのは惜しい。それだけのことだ。そっちこそなぜ青野家に肩入れをする?」
「私じゃないさ。二人の関係修復を願ったのはアルだ。私は、社長の手助けをしただけさ。」
「なるほどな。」
ネルソンは唸った。
「真の黒幕は、あの子だったというわけか……」
そのとき、コツコツと音が鳴った。アノルドが指で円卓を叩いて二人の注意を引いたのだ。
「話はおわりか? もう帰っていいか?」
「いや、まだだ。」
ネルソンは、アノルドをにらんだ。
「わかっているな? お前との賭けは私の勝ちだ。あの二人が船のエンジンが止めたのだからな。約束通り、とことん付き合ってもらうぞ。我が社のシステムに、これ以上穴がないか調べるんだ。」
「あぁ、そのことか……」
アノルドは言った。その様子から、ネルソンが約束を忘れていることに淡い期待を寄せていたようだ。だが、そうは問屋が卸さない。なんとなればこの男は、もし賭けに勝てば、ネルソンがルナスケープの社長を退任するよう求めていたのだから。忘れるわけがない。
「お安いご用だ……」
ふてくされながらも、アノルドは言葉を紡いだ。
今回の賭けで、一番の負けを喫したのはアノルドだろう。彼の予想は、青野親子が宇宙の彼方まで旅立つ、というものだった。そうならなくてよかったと、ネルソンは思った。