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月面ラジオ { 3: "月面反射通信" }

30代のおばさんが、宇宙飛行士になった初恋の人を追いかけて月までストーカーに行きます。

{ 1: 第1章, 2: 前回 }

陽子の部屋を出て月美はエレベーターに乗った。

「屋上は禁煙でございます。ご協力くださるようお願いします」というアナウンスが天井から流れた。
エレベーターから出ると禁煙マークの看板があった。
月美はタバコの火を看板に押しつけたい気持ちになった。

屋上は芝生で囲まれた庭園だった。
春の花を植える花壇と、トマトを育てる家庭菜園の区画で分かれていた。

庭園の向こうには、暗い巨人のような摩天楼が迫っていた。
この建物もビルのひとつだし、月美は巨人の頭を歩いている気分だった。

都会の夜はじゅうぶんに温かかった。
風は穏やかで、耳をすませば車の音が聞こえそうだった。
街の音がここまで届くわけもないのに。

屋上のふちは、ガラスの壁だった。
豪華客船のようにデッキ・チェアが壁際に並んでいた。
そこから鉄筋の黒い海を見わたすことができた。
こんなにもすばらしい景色なのに、デッキには誰もいなかった。

夜も遅い時分だから? 
それともマンションの住人は、都市の景観なんて興味ない? 

きっと興味がないんだ、と月美は思った。
ここに住んでいる連中はホンモノの海の方が好きなんだ。
私だって毎日同じ風景を見ていれば、そのうち別のものが見たくなる。

でも空だけはいつ見ても飽きない。
昨日よりほんの少し欠けた月があった。
それから申しわけ程度に星がいくつか輝いていた。
かすかな瞬きだけど、その実、星星は太陽の何千倍も大きな灼熱天体である。
ただ、気が遠くなるほど遠い場所にあるせいで、わずかな光が地上に届くだけだ。
数千年もの旅をとげた星の光は、月光にも負けず、嵐のような街の光にも埋もれず月美の瞳に映っている。
そんな奇跡のような天体を間近で見たとしたらいったいどれほどの光景なのだろう? 
きっと地獄よりも恐ろしいにちがいない。

かつて月美が夜空を見上げたとき、そんな灼熱の光景に想いをはせる少年が隣にいた。
月美と少年は、いつも一緒に天体観測をしていた。
街灯りの届かない田舎の山で、月明かりのうすい夜を選んでふたりは望遠鏡をのぞきこんだ。

でもいまはポケットに手をつっこみ、ひとり夜空をながめている。
十年以上そうしてきたように。

おとなになった少年は、月の街から地球を見上げているのだろうか。
それとも地球なんか目もくれず、なおも遠くの天体を見つめているのだろうか。
わからない。

芝生に挟まれた遊歩道を歩いていると、まもなく階段をみつけた。
段上に人影があった。
いた。
女の子だ。

なるほど、と月美は思った。
陽子が頭をかかえるのも無理はない。
なにしろ、パラボナアンテナ(おわん型のアンテナで、けっこう大きい)を夜空に掲げ、一心不乱に立ち尽くしてヘッドホンで何かを聞いている女の子が自分の娘だと言われたら、そりゃ頭のひとつも抱えるだろう。

パラボラアンテナにヘッドホンをつけた女の子……
一見してこれほど何をやっているのかよくわからない光景もほかになかった。
少なくとも屋上庭園でお目にかかれるシロモノじゃない。

芽衣は、十三歳の女の子だという。

こどもだけど、こどもっぽくはない。
早熟なところは陽子ゆずりだろう。
去年葬式で会ったとき、こんな雰囲気は感じなかった。
身の丈を超えそうな野望が少女を成長させるのかもしれない。

芽衣の気質をもっとも端的に表しているのは目だった。
自分の意思を強く他者に示せる者だけが持つ目……
つまりは陽子の目だ。
腐った魚の目とは色がちがう(私のことだ)。

髪は、はっきりとした黒色だった。
月美を長、陽子を短として、ちょうどその真ん中の長さだ。
学校の制服をきたままで、スカートは長いとも短いとも言えず、まだ自分にふさわしい丈を見つけている最中のようである。

芽衣がふりかえった。
こちらに気づいたようだ。

「久しぶり。」
 階段を登り切ながら月美は言った。
「わたしのこと覚えてる? 陽子から聞いてるだろ。」

「おばさん。」
 芽衣が答えた。
 ヘッドホンをつけたままだけど、月美の声はきこえている。

「月美でいいよ。」

「久しぶり。月美ちゃん。」

「たぶん……」
 月美は慎重に一呼吸おいた。
「ここを通った人たちから色々訊かれていてもうウンザリだろうだけど、とりあえず私も訊いていいかな。なにやってんだおまえ?」

「うんざりじゃないよ。」
 芽衣は首を横にふりながら言った。

小さい頭に大きなヘッドホンをつけているものだから、首をふるとその重さで骨が折れてしまうのではないかと月美は思った。

「だれも質問なんてしないから。みんなわたしを避けて通るの。」

「なるほどね……宇宙からやってきた電波をキャッチしているのか?」
 月美はからかった。

「そうだよ、よくわかったね。」
 芽衣は言った。

「宇宙人と友だちなのか?」
 予想外の答えに月美はおどろいた。

「正確にいうと、電波は月からきているの。でも月に友だちはいない。」

「よくわからないな。自然の電波じゃないのか?」

「ラジオを聞いているの。でも衛星放送じゃない。」

降参だ、とばかりに月美は首をふった。

「何をしているんだ。正解を教えてくれ。」

「月面反射通信をしてるの」
 芽衣は答えた。

それから芽衣は月面反射通信について教えてくれた。
自分の声や歌を電波で発信して、それを月面で跳ね返して受信するというものだそうだ。
アマチュアの無線家たちが最後にたどりつく高等テクニックらしい。
彼らのテクニックやら目的やらについて、月美は最初も最後もよくわからないけど、月に電波を反射させる壮大な構想に感心した。

「でも電波法とかいろいろややこしいのがあるだろ。許可はとったのか?」

「もちろん。今日、この日のために、一年ちかく準備したの。中古の機材を集めて、修理して、協力してくれる人を集めて……それに、歌を発信したかったから、それも自分たちでつくったの。」

「どうしてわざわざそんなことを?」

「他の人が作った歌を発信すると法律違反になるの。だから自分でつくって……」

「ちがう、そうじゃない。」
 月美は遮った。
「なんで月面反射通信なんかやるんだ?」

「月を近くに感じたいからかな。」
 芽衣は答えた。
「いつかあそこに行ってみたい。」

「へぇ……どうして行きたいんだ?」

「行ったことがないから。」

「行ったことがないから行く」……
まるで答えになってはいないじゃないか、と月美は思った。
けれど、どうしてこんなに心が揺れるのだろう、とも思った。

これほど月美の胸を刺す言葉はなかった。
むかし大好きだった人がまったく同じことを言っていた。
月美を置いて月にいってしまった少年の言葉だ。

「私も月に行きたいんだ。」
 月美は言った。

それから「ちがう……」とつぶやいた。

「ちがう?」
 芽衣は首をかしげた。

「『行きたいとずっと思っていた』のほうが正確かな。」

月美は自分の中から勝手に言葉が出てくるのを感じた。
くだらない話をするつもりはない、話したところで運命は変わらないとわかっているのに。

「けれど結局行けずじまいだ。私は月に行くチャンスをつかめなかった。その実力がないんだ。仕事でまったく成果が出せない。夢、かなわずさ。」

「そうなんだ……」

芽衣は、月美でなくどこか別のところを見ながら言った。

「興味なさそうだな。そうだよな。おばさんのグチだもんだ。」

「そんなことない。」
 芽衣はアンテナの角度を調整しながら言った。
「でも、なんの話だっけ?」

月美は肩を落とした。
それからもう一度「私は月に行きたいけど行けないんだ」と説明した。

「どうして月にいきたいの?」
 芽衣がたずねた。

芽衣の瞳がこちらをみつめている。
すこしはわたしに興味を持ってくれたようだ。

「月に会いたいやつがいるんだ。」
 月美は言った。

「もしかして恋人?」

「こどものころに好きだったやつだ。いっぽうてきな片思いだった。あいつは、私を置いて月に行ってしまったのさ。おかしいと思うか? 十年以上も前にふられたのに、まだそいつを追いかけているなんて。会ったところで私のことなんて忘れている。」

「おかしい。」
 芽衣ははっきりと言った。

「そうか……」

そんな風に言われてはうなだれるしかない。

「でも少しくらいおかしくないと大きな目標はつかめない。月に住むのは、きっとそういうことなの。」

「目標? 夢じゃなくて?」

「目標。」
 芽衣はうなずいた。
「夢って言葉はきらい。自分が欲しいものを『空想の中のケーキ』に仕立てあげているだけだから。たとえ手に入らなくても『それはしかたないこと』って言い訳するために。だから、わたしのは夢じゃなくて目標なの。人よりすこし大きいただの目標。いまはラジオの修理ができるようになったばかりだけど、将来はエンジニアになって宇宙船やロボットを作ったり、修理したりするの。月の上で働きながら……」

月美は思った。
芽衣は月ではたらくことになるんだろうな、と。
私たちが夢とよんでいるものを本当に叶えてしまうのだ。

芽衣とあの少年はおなじなのだ。
あいつも夢という言葉を使ったことがない……
そんな気がする。
あいつは「自分こそが道を切り開ける人間だ」と信じて疑わなかった。
それに失敗した時の言い訳をぜったい探さなかった。
失敗は、成功するための過程のひとつだと成功する前から知っていたのだ。

あいつ……
わたしの幼なじみ……
青野彦丸も達成すべき目標を追いかける人間だった。

「私だって月に行きたいんだ。」
 月美は言った。
「あいつのことはまだ好きだけど、それだけが理由じゃない。私はふられた自分が大嫌いだった。あいつについて行く力も、強さもなかったからだ。だから月に行ってあいつの隣に立ちたいんだ。私だってやればできるんだと見せつけてやるのさ。あいつに……そして私自身にも。そうすれば、私は自分を尊敬できるようになる。月は私の目標なんだ。」

「だったら競争ね。」
 芽衣が笑った。
「私の方が先に行くけど。」

それから十年、月美と芽衣は月へ行くための道を歩むことになる。
ともに切磋琢磨し、勉強し、夜通し宇宙開発について語りあった。
ふたりは友だちになったのだ。


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