
{ 23: 輸送 }
なにかに縛り付けられていた。もぞもぞと体を動かせるけど、それ以上はムリだった。クッション付きの寝台の上に寝かされているようで、縛られていても寝心地だけはよかった。ときたま寝台ごと体が上下左右に揺れている。もしかしたら車の中にいるのかもしれない。
春樹は目をあけた。やはり車の中だった。寝台を置けるだけあって、車内はかなりの広さだ。天井は、立ち上がらなければ、手も届きそうにない。電灯が車内を照らす一方で、窓は黒い布でぴっちり覆われていて、外の光はまったく入ってこなかった。
春樹の右腕には針がささっていた。そこからチューブが伸びて点滴袋につながっていた。救急車の中にいるみたいだ。事実、車内は救命医療の機材でごったがえしていた。車体側面の棚には、春樹が理解できるものだけでも、酸素ボンベと酸素マスク、点滴用の器具、心電図のモニター、血圧計、救急箱などがあった。目を細めてよく見れば、機材のかたわらに春樹のメガネも置いてある。春樹は、車体の反対側に備えつけてあるベンチにハリ孝之が座っているのを見てとり、それから天井に視線を戻した。
「現在、車で君を輸送中だ」
聞いてもいないのにハリが説明した。
「東京を出る。かなり時間を要するので我慢してほしい。具体的な目的地は教えられないが、注射刀をつくっている秘密工場のそばとだけ説明しておこう。この意味はわかるね?」
なるほど……工場で、直接、僕の血を絞るということか。血液の結晶にも鮮度というものがあるのかもしれない。
「やっと、新しい注射刀の生産のメドが立った……」
ハリは言った。
「君の血で作った注射刀ができあがれば、治安隊はもっと安全に戦える。いや……もはや、敵を殲滅することさえ夢じゃない。ユウナ博士の不断の努力、それに春樹君の献身の賜物だ」
献身? 二ヶ月の間、殴られ続けることを献身と呼ぶのか、この人は?
「今日で君ともおわかれだ」
ハリは続けた。
「私は、この任務から外れることになった。君を護衛し、目的地まで送り届ければ、それでおしまいだ。君を殴ることは、もう二度とない」
ハリ拷問担当官殿は、春樹に向かってウィンクしてみせた。
「でも、安心してほしい。君をどう痛めつけたらいいか、新しい担当官にちゃんと引き継いでおいたから」
それから三十分間、春樹はひとこともしゃべらなかった。
いくらクッションがやわらかいといっても、ずっと同じ姿勢でいるのは辛かった。春樹はたまに寝台の中で体を動かそうとしたけれど、体を縛られているせいで、寝返りすらできない。とはいえ、縄でぐるぐる巻きにされているわけでもない。毛布の上からベルトを巻いて、体を寝台に固定しているだけだ。無理に体を動かせば、きっと抜け出せるだろう。でも、すぐそばに見張りが控えているので、逃げ出すのは不可能だった。もとよりそんな気力、つゆほども湧いてこないが……
さらに時間が経った。目を覚ましてからどれほど時間が経ったのかもわからなくなったころ、車の走行音にまじって、コトッという音を聞いたような気がした。あたりを見回してみたけれど、点滴の袋がすっかり空になっていることを除いて、車内に変わりはなかった。ハリも腕を組んでベンチに座ったままだ。運転席で何かが落ちたのだろうか? 体を寝台に固定されているせいで、そちらを見ることはできなかった。どちらにしろ異常はないようだ。気のせいだったのだろう。そんな風に思ったところで、もう一度コトッという音を聞いた。
聞き間違えではないようだ。今度は、ハリも音に気づいて、あたりを見回した。ふたりの目が合った。春樹が同じようになにかを感じ取ったと気づくにいたり、ハリも聞き間違えでないと確信したようだ。
「いま、なにか……」
ちょうどそのとき、車が減速した。信号で停止したのだろうか。またコトッと音が鳴った。音は、車の天井からだった。
「まずい!」
ハリが運転席に向かって叫んだ。
「上に誰かいるぞ! 車を停めるんじゃない」
だが遅かった。とんでもないことが起こった。春樹の体が、急に横回転した。何者かが春樹の寝台を持ちあげ、倒そうとしているのだ。いや、ちがう……それは見当違いもいいとこだ。車内には、ハリと運転手しかいないのに、いったいだれがそんなことをできるというのだ? 倒れているのは寝台じゃない。なんと、この輸送車そのものだった。
車は、ガタン、ガコンという恐ろしげな音を立てて、あっという間に横転した。運転席から叫び声が聞こえた。春樹は、生きた心地がしなかった。体をしばられたまま、寝台が車体の側面に向かって滑り落ちていったからだ。このままだと、車体と寝台の間で体が押しつぶされてしまうけど、春樹には為す術がなかった。
さらなる悲劇が起きそうだった。寝台が横滑りしながら落ちていくということは、ベンチに座っていたハリと春樹が、寝台ごと激突するということでもある。春樹はそれでいいと思った。たとえ自分の体が潰れたとしても、その価値はある。
「くそが!」
鍛え抜いた反射神経と判断力ですでにシートベルトをはずしていたハリは、体を捻ってギリギリのところで寝台をかわした。運転席からガラスの割れる音と、叫び声がふたたび聞こえた。叫び声というよりも、首を掴まれた鶏の悲鳴のようだと春樹は思った。
車体は、横転したあとピタリと止まった。それでも車体のきしむ音はしばらく止まず、窓がアスファルトに押しつぶされる音も聞こえた。棚からは、用具箱やらモニターやらが落石のように降ってきた。車内はあやうく大惨事といったところだけど、せめてものすくいは、春樹が壁との激突をまぬがれたことだろう。台車は地面に対して真横に倒れた状態で、春樹は毛布にくるまった状態で宙ぶらりんになっていた。
「な、なにが起きた!」
あやうく寝台の下敷きになりかけたハリが、運転席に向かって声を張った。
「周りの状況はどうなっている? 他の車両から応答はないのか? どうした……答えるんだ!」
運転席から返事はなかった。
「襲撃……? そんなばかな!」
ハリから、恐怖と混乱の入り混じった声が聞こえた。
「ありえない……囮の車両をほかに三つも用意して、この車だってわざわざ遠回りしているんだぞ。まさか計画が漏れて……?」
ハリは、その場で起き上がると、向かいの棚から落ちて来た医療箱や血圧計を蹴飛ばしてから、車のうしろの観音扉をこじ開けた。ガシャンと、扉とアスファルトとのぶつかる音がした。寝台にしばりつけられたままの春樹を残し、ハリは外に出ていった。
「だれかいないのか!」
ハリの声が聞こえた。
「生き残っている者はいるか? 返事をしろ!」
しばらく耳をすませてみたものの、誰の返事もなかった。
「ま、まさか全滅したのか!」
ハリの悲痛の声だ。
「くそ……出てこいバケモノめ!」
車内の静寂とは裏腹に、外が騒がしくなった。ハリと襲撃犯との戦いが始まったようだ。相手は、あの動物面のテロリストだろうか? まぁ、誰であってもかまわないのだけど。ハリが敵を返り討ちにして自分の輸送を再開しても、テロリストが勝利して武器の原材料である自分の息の根を止めたとしても、もはや春樹の関心事じゃない。なんなら、このまま眠ってしまおうか? そう思いはしたものの、車の外から雄叫びのような声、悲鳴、何かがぶつかった時の衝撃……およそ人間が戦っているとは思えない音がして、眠るどころじゃなかった。体を横にしたまま宙吊りになっている今の状態だって、安静とほど遠い。
春樹は仕方なく、毛布の中から左腕をだした。それから体を寝台に縛り付けているベルトのバックルのボタンを押して、自分の拘束を解いた。上半身だけが、寝台から滑りおちて、車の壁にぶつかった。下半身がまだ寝台に固定されたままで、余計つらい状態になった。
「そうか……腰の下にもベルトがあったのか……」
春樹は、すっかり重たくなった体をなんとか折り曲げて、太もものところにあったベルトのボタンを押した。今度こそ寝台からはずれ、体がドスンと落ちた。
そのまましばらく車の壁に転がっていたけど、ずっとそうしていても仕方ないので、春樹はその場で手をついて起き上がった。奇跡的にも自分のメガネがすぐそばに落ちているのに気づいた。春樹はメガネをかけてから、点滴の注射針を腕から抜いた。腕から血が垂れてくるのにもかまわず、横転した車内を歩いた。棚から落ちた心電図のモニターをまたぎ、片側だけ開いていた観音扉から外に出た。
あたりは真っ暗だった。車の走る音が聞こえなかったので、夜だとわかっていたけど、もう真夜中のようだ。雑居ビルに挟まれた片道三車線の通りには、人通りも車もまったくなかった。街頭が、オレンジ色の光を夜道に投げかけていた。
春樹の護送車と並走していたと思わしき黒いバンが、二台とも道端で横転していた。その回りに、オリーブ色のチョッキを装備したカンパニー治安隊が数名倒れていた。春樹を輸送していた車は、運転席の扉が引きちぎられていた。運転手と思わしき隊員が上半身だけ引きずりだされていて、タオルでも干しているかのように体を折れ曲げた状態で車体に引っかかっていた。生きているのか、死んでいるのか、わからない。
静かだった……眼の前で死闘を演じているふたりを除けば、月も星もなく、曇りがちの静かな夜だった。秋に差し掛かったとはいえまだまだ生暖かい夜風を春樹は思い切り吸い込んだ。二ヶ月ぶりの外の空気だった。