{ 10: テロの架け橋 }
悪寒はいまや動悸となって春樹を襲っていた。胸が苦しい。口を閉じることができず、奥から熱い息が漏れ出てくる。このまま倒れてしまいそうだ。
一方で春樹は、自分の様子を天井から眺めているもうひとりの自分がいることに気づいていた。天井の自分は、急にクラクラしたのには驚いたけど、このくらいの発作は毎朝起きているじゃないかと、そんなふうに言っている。この場でじっとしていれば、そのうち発作は収まるはずだ。どんなに悲惨な夢を見ても、僕は朝になればとちゃんと目覚めるし、救急車騒ぎだって起こしたことはない。
春樹の予測は当った。まもなく動悸が収まってきた。春樹は、半ばムリヤリに息を吸って、一度息を止めた。それからゆっくり息を吐き出し、深呼吸をくり返して体中に新鮮な空気を行き渡らせた。手汗は残り、心臓は早鐘を打ったままだけど、問題はなさそうだ。
「部屋の中で……何かが起こっている?」
どうしてそう思うのかはわからないし、理由を考えても意味はなさそうだ。とにかく、そう思うのだ。
わけがわからなかったけど、一つだけ確かなことがあるとしたら、目の前の扉を開けることで、すべて明らかになるということだ。果たして悪夢の原因となった「何か」がそこにあるのか? それとも変圧器が整然と並んでいるだけで、春樹の思い過ごしだったと判明するのか? 春樹は迷ったけど、「まずは行動を起こさなくちゃ」という秋人の言葉を思い出し、再びドアノブに手をかけた。
鍵がかかっていたら引き返すと秋人に約束していた。鍵がかかっていますように、鍵がかかっていますように……そう祈りながら春樹はドアノブを回した。
電気室の扉は、カチャリと開いた。
◇
廊下よりもさらに暗かった。何も見えず、春樹は立ち尽くした。暗闇に目が慣れるまで待ち、中の様子がわかるようになると、今度は悲鳴を上げそうになった。
部屋は惨状と呼ぶべき有り様だった。そこにあったモノ全てが、破壊されていたのだ。本来であれば、変圧器をしまっている筐体が、ロッカールームのように整然と並んでいるはずなのに、何もかもがぐちゃぐちゃで、床に残骸がちらかっていた。
「い……いったい何が?」
春樹は変圧器のひとつに近づいた。蓋がひしゃげ、ムリヤリこじ開けられた跡があった。操作盤の上にある計器とスイッチは潰され、ケーブルや電子部品も、魚のハラワタのように中から引きずり出されていた。
爆弾がこの部屋で爆発したのだと思った。けれど、すぐにその考えは間違いだと気づいた。爆弾であれば、床や壁にも爆発の傷跡が残るはずなのに、その痕跡はなかったからだ。どちらかといえば、子どもがダダをこねて暴れまわったかのようだった。でも変圧器は子どもが壊せるようなシロモノじゃない。それどころか、おとなが数人がかりでハンマーを持ってやったところで、こうはならないというくらい部屋は荒れ果てていた。
奥に何かが転がっていた。初めそれがなにかわからなかったし、できればわからないまま一生を終えたかった。でも目をそむけるわけにもいかず、確かめるほかなかった。転がっているそれには、見当違いの方向に折れ曲がった状態で手足が付いていた。
春樹は吐き気をこらえながら、床に散乱している機械の残骸を避けてそちらに進んだ。それのすぐそばに立ち、念のため本当に人間なのか確かめた。生きているかどうかどうかを確かめる必要はなかった。電気室の床に転がっているのは、まごうことなき死体だった。
作業服を着た男だった。この電気室の管理人だろうか? つい先ほどまで……部屋がこんな有様になるまで……ここで仕事をしていたのかもしれない。体は仰向けで、パントマイムよろしく珍妙なポーズで転がっていた。顔はよくわからなかった。顔だけが地面の方を向いていたからだ。
部屋が破壊されていただけでも尋常じゃないのに、首のねじれた死体があるだなんて、思考の追いつける事態ではなかった。ふりかえって逃げ出そうとした。ただ、ギーという音とともに扉がゆっくり開き出したので、春樹は足を止めて変圧器の裏に隠れた。隠れる必要はなかったかもしれないが、そうせざるをえなかった。だって、もしこの近くに誰かがいるとしたら、この人を殺したヤツかもしれない……
足音をさせながら誰かが部屋に入ってきた。その誰かは、春樹がそうしたように辺りを見渡し、それから口を開いた。
「いるんだろう? 出てこい……」
とうてい返事をする気になれなかった。破壊つくされた部屋と死体とを見て、最初に出てくる言葉じゃない。春樹は地べたに座り、膝を胸にかかえこんで、できるだけ小さくなろうとした。壊れた筐体は、春樹の体を隠すには不十分で、おかげで鼻から上が全部はみ出ていた。
春樹は声のするほうに目をやった。暗闇の中でも、廊下の非常灯に照らされた男の姿が見えた。やはりというか、なんというか、偶然ここを通った作業員とはとても思えない格好をしていた。
男は、犬の仮面をかぶっていた。仮面は二本の角を生やし、さながら鬼を模した犬の仮装といったとろだ。深いシワが山脈のようにヒタイを横断し、寄り目がちで、犬の表情は激怒していた。男は、春樹がこれまで見たこともないような巨漢で、身長は二メートルくらいあった。それだけでもビックリなのに、何より驚いたのは、その男が真っ赤な髪の毛をしていたことだ。
「赤……?」
春樹はこのまま隠れることにした。仮面をかぶり、常人離れした体つきで、髪を染めているというだけで殺人鬼扱いするのは早計かもしれないが、それは不審者を直に見たことのない人の意見だ。春樹だって不審者にちがいないけれど、少なくとも作業員らしい服を着て、場に溶け込もうとした。しかしこの男は、妙ちくりんな仮面をかぶってこの場に参上している。そんなヤツには、ぜったいに見つかっちゃいけない。
「さっさと出てこい!」
大男が部屋の中に大股で一歩入った。春樹の心臓は跳ね上がった。何をされたわけでもないのに、男が怖くてしかたなかった。
「赤い髪? 首の折れた死体? いったいなんだってんだ!」
そんなふうに叫んで走り出したかった。男の横を全速力で駆け抜け、この場から逃げるのだ。だけど、そんなことできそうになかった。電気室の扉は、男の巨体で完全にふさがっている。
春樹がその場で縮こまったまま震えていると、別の声がした。
「おい、そこで何をしている?」
今度は女の声だった。知り合いに話しかけているような調子で、警備員とは思えなかった。
扉の向こうにその女の姿が見えた。犬面の仲間だと、春樹は確信した。女は、二本角の生えた狐の仮面をかぶっていた。やはり相手を威圧する鬼の形相をしていた。男とちがって細身ではあるものの、それでも春樹よりずっと背が高く、目測で百八十センチくらいありそうだ。それに、クセのある赤い髪を仮面の上で波打たせている。
「閉めたはずの扉が開いていた。中に誰かがいると思ってな……」
犬面の男は言った。
「だからなんだ? ネズミなんて放っておけ」
狐面の女は言った。
「ネズミじゃない。ここにいるのは人間だ。なおさら駆除する必要がある」
「ネズミと同じで一匹一匹相手にしていたらキリがない。ここにいた者だって殺す必要はなかった」
「人間どもをかばうのか?」
「力をムダ使いするなと言っているだけだ」
女は言った。
「我々の目的は、ユウナを殺すことだ。そのために準備をし、力を蓄えてきたのだ。お前は自分の役目を理解しているのだろうな?」
「当たり前だ。ちょいとひと暴れするだけだろうが……」
「それだけじゃない。人間どもを逃さないように捕まえて人質にする。我々が治安隊をひきつけて、 敵の戦力を分散させるんだ。ヤツらとの戦闘になるまで力を蓄えておけ。わかったな?」
「わかっている……」
偉そうされるのが癇に障るのだろう、犬面の男はかなり不機嫌だった。
その時だった。ジリジリジリというけたたましい音が辺り一帯で鳴った。緊急事態を知らせるための警報で、春樹はその音に驚いて声を上げそうになったけど、すんでのところで持ち堪えた。
動物面のふたりは互いに顔を見合わせた。
「始まった……行くぞ」
狐面の女が言った。
「あぁ……」
犬面の男がうなずいた。
とたんに二人の姿が消えた。走り去ったというよりも、文字通り忽然と消えさった。そのあまりの早さに春樹は自分が幻を見ていたのではと思ったほどだ。だけど、床の死体は消えないまま残っていた。