{ 5: カンパニー・タワー }
どこからでも見ることのできる建てものが、東京にふたつある。
そのうちのひとつが、「カンパニー・タワー」だ。アジア・エネルギー・カンパニーが本社をかまえるオフィスビルで、千メートルくらいある。新宿のど真ん中に鉄骨とガラスでできた棍棒をぶっ刺したような巨大建造物で、すでにあった無数のビルやマンションを「じゃまだ」という理由で軒並み解体した上で、そこに建てられたそうな。ほかの施設をわざわざ潰しただけあり、地上から中層階にかけてレストランやアパレルショップ、区役所や図書館があり、はては病院や水族館、屋内庭園、ホテルまでもがタワーの中に作られていた。
五十階から上がやっとカンパニーの本社となり、オフィスはもちろんとして、研究施設や社員の住居も含まれている。カンパニーで働いている人たちは、その気になればビルから一歩もでなくたって生涯を健康的に過ごせる。ビルそのものが一個の街というわけだ。
夏の平日の午後一時、春樹はその街を訪れた。
◇
春樹は、カンパニー・エントランスへの直通エレベーターの中で、窓にはりついて外を眺めていた。地上三百メートルの高さともなれば、世界最大の街並みを海のように見渡せた。でも、このタワーと比べると、どの建てものも踏みつぶせるほど小さく見えて物足りなかった。
タワーを上回る建てものがひとつだけあった。遠く江東区にあるというのに、このエレベーターからでさえ見上げなければならないほど巨大な建造物である。カンパニー・タワーを最新鋭のガラス細工のような建築とするならば、「黒い塔」と呼ばれるその建てものは、まるで鉄の棍棒だった。
それは、ビルではなかった。「塔」という名の示すとおり、ただひたすら床と壁を積み上げていくうちに、いつしか空まで届いてしまった代物で、もはや月をも突き刺ささんばかりの鉄筋の塊である。東京のどこからでも見ることのできる建てもの、そのふたつ目だ。
エレベーターが昇るにつれ、ふもとの森林公園は十円玉くらいの大きさになり、新宿の摩天楼さえも足元で転がるオモチャのようなのに、黒い塔だけは変わらぬ存在感で春樹の目に映りつづけていた。遠くにあるのに、まるですぐそばで見上げているようだ。東京で暮らしている人たち全員が、塔を見るたびに春樹とおなじように感じているはずだ。
「わるい子のところには、怖いオバケがやってきて黒い塔に連れ去ってしまう……」
春樹がまだ幼かったころ、母さんは、そんなふうに言って僕たち兄弟を叱ったものだ。その脅しがやたらと怖くて、母さんが亡くなって十年経った今でも、春樹はたまに震えそうになる。あの塔なら、この世ならざる者たちがうろついていても不思議ではないからだ。
黒い塔について「いったいなにが不思議なのか」と訊かれれば、答えは「なにもかも」だ。なんとなれば、誰が塔を建てたのか、誰も知らないのだ。塔の建造がいつから始まったのかさえ、意見はバラバラだった。だいたい五百年前から始まったという者もいれば、いやいや千年ほど前からこの地にあったと主張する者もいた。なにしろ気がついたら塔は高さを増していて、少なくとも数百年かけて増築されてきたものだから、すでに完成しているのかすらわからないのだ。確実にわかっていることがあるとすれば、高さは千三百メートに達し、カンパニー・タワーよりさらに高いということくらいか。
塔の中に何があるのか春樹は知らない。そこでは「死者が徘徊する」とも、「テロリストが立てこもっている」とも、「バケモノが人間のマネをして、街を作って暮らしている」とも言われ、奇怪なうわさは絶えなかった。春樹のような未成年は、塔に近づくことすら許されておらず、おとなたちは、塔のこととなると口を閉ざしてしまう。
「黒い塔」で暮らしているのは何者なのか? 死者、テロリスト、バケモノ……いずれにしろ、不吉な何かだろう。
「不吉といえば、地下鉄で見たあの赤い目……」
おかしな考えがよぎったので、春樹はあわてて頭をふった。それから、あれは幻だったと、改めて自分に言い聞かせた。エレベーターが、五十階の「カンパニー・エントランス」に到着した。
◇
秋人たちは、先にエントランスホールに到着していた。秋人も含めて男ふたり、女ふたり、あわせて四人が春樹を待っていた。
人混みの中でも秋人たちはすぐに見つかった。世界に名だたる企業なだけあって、ここは空港かと見紛うばかりに人で溢れていたけれど、学生は秋人たちだけだったからだ。秋人は、カフェのテラス席で同級生たちとコーヒーを飲んでいた。春樹の到着に気づくと、大げさに手をふった。
春樹は、無意識のうちに秋人から借りたネクタイに手を伸ばした。そのことに気づくと、慌てて首元から手を離した。緊張からエレベータの中で何度も結び直したせいで、ネクタイの結び目は石のように固くなっていた。春樹は、これから弟の高校の生徒のフリをして、企業見学をする予定なのだ。
「春樹! こっちだ!」
そんなこと言われなくたってわかっているのに秋人は声を上げた。頼むから今は僕の名前を呼ばないでくれと思いながら、春樹は駆け足でそちらに向かった。
「紹介するよ!」
春樹が空いている席に座ると、秋人が言った。
「右から順番に、リク勇太、ワン由比、それからステファン明日香だ」
リク勇太は、秋人と同じくらい背の高い青年で、肩幅もあるので何かスポーツをやっているのだろう。真ん中のワン由比は、背の低い女の子で、髪は短めでおとなしそうだ。対して、秋人の隣に座っていたステファン明日香は、髪が長かった。
明日香は、ただひとり春樹に向かって笑いかけていた。その笑顔に見とれていたせいで、他のふたりが「よろしく」だの「はじめまして」だの口々に挨拶をしていたのを春樹は聞き逃していた。
「こっちは、シャン春樹だ」
秋人が春樹の肩に手を置いた。
「俺の兄貴で、ビル設備マニアだ」
「はじめまして、兄の春樹です! 趣味はボイラー、特技は配電盤です」
だれも何も答えず、シーンとなった。勇太と由比のふたりは「はぁ?」と言いたげで、明日香だけは笑顔のままだったけど、口元がやや引きつっていた。
「おい、ぜんぜんウケないぞ?」
春樹は言った。
「俺のせいにするな」
秋人は言った。
それから仕切り直すように手を叩いた。
「さぁ、お互いをよく知ったところで、受付をすませよう。レセプション・デスクはどこにあるんだ?」
「もう一つ上のフロアだよ。あそこのエスカレーターで上ったら真正面にレセプションがある」
春樹は言った。
「ここに来たことがあるの?」
明日香が尋ねた。
「おう、一年前にも来たんだ」
と、春樹は答えようとしたけれど、急に話しかけられてびっくりしてしまい、「い、イッち……」みたいにまごついていたら、代わりに秋人がそう返事をした。エスカレーターに向かって歩き出した明日香の背中をボーッと見つめていると、秋人が春樹の肩をつかんで引き寄せた。
「どうだ? いいコだろう」
「うん、そうだね……」
「俺たち、つきあってるんだ」
「はぁ?」
春樹は声をあげた。
「聞いてないぞ!」
「いま言っただろう?」
それだけ言うと、秋人はスタコラ進んで明日香のとなりを歩いた。
「あ、秋人のやつ……」
ふたりの背中を見ながら春樹は恨みがましく言った。
「僕をおどろかせたくて黙っていたな」
エスカレーターでは、秋人と明日香が並んでに乗った。ふたりの後ろを歩いていた春樹は、ワン由比に道をゆずった。
「お先にどうぞ」
「ありがと」
由比は、春樹に笑いかけながらエスカレーターに乗った。なんてステキな笑顔なんだ、どうして今まで気づかなかったんだろう……と春樹は思った。続いてエスカレータに乗ろうとすると、すかさずリク勇太が割りこんできて、由比のとなりに立った。それから、春樹のことなんかすっかり忘れて、ふたりで話しこんだ。
「まあね……こうなることは初めからわかっていたじゃないか」
ひとり納得したようにつぶやきながら、春樹はエスカレーターに乗った。