{ 40: 戦士(2) }
黒い塔で最初に目覚めた時、春樹は、この犬面の大男の声に聞き覚えがあると思った。その時は何となくそう思っただけで、理由はついぞわからぬままだった。でもたった今その理由に気づいてしまった。
この男の声は、カンパニータワーを襲ったテロリスト、イッショウの声と凄まじく似ているのだ。声だけじゃない。イッショウとニショウ……名前さえ似ているじゃないか。そして、両者ともおなじ犬の仮面をかぶっている。声が似ているなら、年齢も似たようなものだろう。もしかしたら、この犬面の大男は、イッショウの血縁者ではあるまいか? いや、間違いなく、血を分けた兄弟だと春樹は思った。ちがうのは、角の数だけで、イッショウが二本角だったのに対し、ニショウの仮面は一本だけだ。
春樹は、今そんなものを使う用事はないのに、マイナスのドライバーを工具箱からとりだした。ドライバーの先端を鏡のように使って後ろを見ようとしたのだ。こんな時のためにというわけではないが、春樹はいつも工具をピカピカにしている。我ながらいいアイデアだと思ったけど、そうそう都合よく背後の様子はわからなかった。わかったのは、ニショウが仮面を外していることだけだった。
テロリストが道端で素顔をさらすだなんて予想していなかった。黒い塔がヤツらのアジトであることを鑑みれば、もしかしたら仮面をかぶっていることのほうが不自然なことなのかもしれないけど、いずれにしても、そんなことはどうだっていい。それよりもニショウの顔の方がずっと気になった。
春樹は、動物面の裏の顔を見たことがなかった。彼らがどんな顔貌をしているのか、是が非でも知っておきたいという衝動にかられたけど、さすがにふり向く勇気はない。「僕の正体がバレたら」という恐怖が、好奇心をはるかに上回っている。
それにヤツらは、赤い髪と赤い目を持っている。仮面の隙間からのぞいていた血のような瞳、頭の後ろで嵐の中の炎のように乱れる髪の毛……そのどちらもが、春樹にとって恐怖の象徴だった。そういったモノがこの目に飛び込んだとき、意識を保つ自信はまだなかった。トマト責めという拷問をロウが思いついたおかげで赤色にもそれなりに慣れたけど、やっぱりテロリストは怖い。
「珍しいな、兄貴が街を歩いているだなんて!」
ロウが大きな声で言った。
「何かあったのか?」
おいおい、長くなりそうな話をわざわざ自分から始めないでくれと思ったけど、もちろんそんな態度はおくびにも出さないで、春樹は電源ケーブルを曲げる作業に勤しんだ。
「あったというほどでもないのだがな……」
ニショウは言った。
「最近、イサミという侵入者がここら低層階の街に出没しているんだ。おまえは、『塔の探索者』などと呼んでいるようだが……」
「そいつが何かしたのか?」
「逃亡犯だ。一ヶ月ほどまえ、俺たちが捕まえたんだが、処刑の直前で逃亡した。火葬屋のマヌケめ……ヤツが逃げ出したことを報告し忘れていたんだ。直前の火葬に集中していたせいで、火葬部屋を出ることもできず、報告するヒマがなかったってな。まるで、その火葬を命じた俺のせいだと言わんばかりだった」
「たかだか逃亡犯を追いかけるために、兄貴ほどの戦士がわざわざ駆り出されているのかい?」
「それもそうなんだがな……」
「兄貴ほどの戦士」あたりでニショウは何やらむず痒いモノを感じたようだ。春樹はその様子を直接見たわけではないし、ニショウだってその態度を隠そうとしていたけど、声のうわずった調子から彼が得意げなのはわかった。
「その逃亡犯は、人間奴隷の解放の罪で指名手配されている。普段は塔の中層で活動し、高層にさえ侵入したことがあるほどなんだが、そんなヤツがなぜこんな低層の街をウロチョロしているのか、少し気になってな……いずれにしろ『塔の主様』に楯突く者をのさばらせておくわけにもいくまいよ。まあ、俺から言わせれば、人間というだけですべからく大罪であり、屋根裏に潜むネズミと同じく根絶やしにするに越したことはない。それに……」
「それに? それにどうしたんだい、兄貴?」
余計なことを聞くなロウ、と春樹は火事で焼け焦げた壁に向かって叫びそうになった。
「ロウ、おまえに聞きたいことがある。その侵入者の他にも、よそ者の太ったガキを見なかったか?」
「いや……」
ロウは、何かを考えているかのようにしばらく間をおいてから答えた。
「心当たりは……ないかな……そいつも人間か?」
さっさと話を切り上げてくれ。いつまでも、電線ケーブルを曲げているわけにはいかないぞ。
「そうだ。人間のガキだ」
「その人間が、いったい何をしたんだい?」
「死んだ者の行方を尋ねる意味はなかろう」
突如女の声がしたので、みんなそちらをふり向いた。スイレイだ。春樹もついつい顔をあげてしまったけど、あわててケーブルを曲げる作業に戻った。
「そのガキの処刑には、お前も立ち会っただろう。焼いたあとの灰を確認しているというのに、生死を気にするのは時間のムダだ」
「火葬屋のヤツは、少量の灰を俺たちに見せただけだ。ガキの成れの果てだと言ってな……その灰がほんとうに例のガキなのか、怪しいものだ。少なくとも、犯罪者を逃し、報告を怠ったマヌケの証言を鵜呑みにする気はない」
「なにがあっても火葬部屋を出ず、灰になるまでヤツを焼き尽くせと命じたのは、ニショウ、貴様だろうよ。そんなことよりも、さっさと二十一階に行くぞ。この街には、侵入者の目撃証言はない」
「おいスイレイ……俺に指図するな」
ニショウの冷たい声がした。ロウと気さくに話していた声色とはまるでちがい、会話の外にいる春樹さえ震え上がらせるほどだった。
「主様の命でしかたなく組んではいるが、俺はお前を認めたわけじゃねぇ」
「いまのは、指図のつもりではないのだがな……」
スイレイはため息をついた。
「だが、すまなかった。これからはお前のマヌケぶりに言及しないようにするよ……」
背後では、スイレイとニショウとが睨み合っていることだろう。春樹はそちらを見れないけど、いつも無邪気に口をはさむロウが、この時ばかりは固唾をのんでいるのがその証拠だった。ピリピリとした空気は痛いほどで、しばらくはだれも何も言わなかった。
まもなくこの場所で殺し合いが始まるのでは、と春樹はおもった。不死身の者同士が戦えば、果たしてどうなるのかわからないけど、ふたりが戦うことに文句はない。両者ここで倒れてくれたなら、なおのことけっこう。ただ、戦いに巻き込まれたらたまったものだじゃないだろう。イッショウが人間をバスケットボールのように投げ、スイレイが大型車をひっくり返していたあの光景が、今もありありと目に浮かぶ。
逃げる準備だけでもしておこうと、春樹は手にしていた工具をできるだけ静かに腰のポーチにしまった。けれど、予想に反し(もしくは期待に反し)争いは起こらなかった。スイレイが黙ってその場を立ち去ったからだ。
「スイレイめ……次に何か生意気なことをいったら、首を引きちぎってやる……」
飛びかかりこそしなかったものの、いかにもそうするべきだといった調子でニショウは吐き捨てた。声の届かないところまでスイレイが行ってしまうと、ロウは息をついた。
「ふぅ、おっかなかったな……兄貴、あの狐面の戦士はだれだい?」
「スイレイ……以前にイッショウと組んでいた女だ。塔の主様より二本角の狐面を拝領している」
「角は兄貴よりも多いんだな」
ロウのこの発言に、ニショウはカチンときたようだ。
「俺より早く『覚醒』しただけのことだ。角の数は、覚醒後の経過時間を示しているに過ぎない。だから、俺よりエライわけじゃない。ましてや、俺より強いわけでもねぇ。おい、そんなことよりも……そこにいるガキは、おまえのツレか?」
春樹は飛び上がりそうになった。この様子なら僕の存在なんか気に留めず立ち去ってくれると期待していたのに、運命はなんと過酷なことか……まずい、どうしよう? どうしようもないぞ……頭が真っ白になり、春樹はその場で立ち尽くした。
「あぁ、こいつはウチの新入りなんだ」
ロウが言った。
ロウ、うまくごまかしてくれと、春樹は心の中で叫んだ。
「いま俺が仕事を教えてやってるのさ。おい、新入り! こっち来て、ニショウの兄貴に挨拶しろや!」
「なんてことを!」と、今度こそ春樹は叫びそうになった。ロウなんかに自分の運命を託さずに逃げておけばよかったと心底後悔した。でもいまさら文句をいったところで時間が戻るわけじゃない。
春樹は観念し、ニショウの方を向いた。それも、髪が乱れるくらいのとびきりの速度で。
「ヤガンです!」
春樹はやけくそになって言った。
それから、ニショウと目が合わないうちに、ハンチング帽を取り去って、ヒタイを地面に打ち付けんばかりの勢いで頭をさげた。
「ロウの兄貴のところで世話になっています! どうぞよろしくおねがいします!」
「すまねぇな兄貴」
ロウは言った。
「ヤガンは初めて戦士と会って、すげぇ緊張してるんだ。こいつには、あとで礼儀ってのを叩き込んでおくから、今日のところはカンベンしてくれ」
春樹は、そのままの姿勢で待った。自分の顔から汗がポタポタと地面に落ちるさまを見続けていた(地面に水が染み込みあっという間に雨の跡のような模様ができた)。ニショウが僕の正体に気づかないまま去ってくれるなら、永久にこのままの姿勢でいいとさえ春樹は思った。
「そうか……」
やがてニショウの声が聞こえた。
「まあ、なんだっていい……俺もそろそろ行くとするか……じゃあな、ロウ、元気でな」
春樹は飛び上がって喜びそうになりつつも、腰を直角に曲げた姿勢を維持した。ニショウは、なおもロウに二言、三言を残した。
「そうだ、ロウ……おまえに言っておくことがある。イッショウの兄貴が死んだんだ」
「なんだって!」
ロウが声をあげた。
「まさか寿命が来たのか?」
「いや、そうじゃない。兄貴の寿命は残っていた。まだ二本角だったからな……」
春樹は、頼むからさっさと切り上げてくれと懇願しながらも、ふたりの話に耳を傾けていた。
「殺されたんだ。戦いに負けたわけではないが、カンパニーへの攻撃の最中に死んだんだ。戦士の死を気安く教えるべきではないんだが……おまえはイッショウの兄貴になついていたから、伝えておこうと思ってな」
結局、春樹がニショウの素顔を見ることは叶わなかった。唖然とするロウを置いてニショウが立ち去り、春樹はなおも震えながら頭を下げていたからだ。