見出し画像

愛するということ

愛し方

私は、愛し方を間違っていたのかもしれない。
そう気がついたのは、昨日、友達が私に言ってくれたセリフ。
「かなみちゃんは、子供のときに愛された感覚がないから、どう表現していいかわからないのが当たり前。甘えたこともないから、頼っていいよ、って伝えるのも苦手なんじゃない?」

ドキッとした。

その通りかもしれなかった。

私は、子供のやることにあまり口出しせずに、黙って見守ることが愛情表現なのだと思っていた。
口出ししたくても、抑えていた。

それは、間違いだったのかもしれない。


無条件の愛



3人の子供たちは愛しい。無条件に愛しい。
だから、小さいときは、ギュッといっぱい抱きしめて、絵本をいっぱい読んだり、どろんこになって一緒に遊んだり、キャンプに行ったり、トランプしたり、たくさん遊んだ。

大きくなるにつれて、愛し方を頭で考えるようになった。
長女には口出しすることも多かったが、その反省を踏まえて、
下の男の子たちには口出しせずに、見守ることを自分に課してきた。

こどもはつまずきながらより大きく成長するのだ、と。

私をあまり頼りにしない子どもたち

長女は今春就職したが、本当にしっかりした子で、コロナ禍の就職難の中、SNS等のネット環境を駆使して、無事大手企業に就職した。
その後、一人暮らしを始めたが、ときどきLINEがあるものの、ほとんど連絡はしてこない。

長男は九州の大学の2年生で、コロナ禍の影響で、ほとんど帰省できていないが、自分で家庭教師やカフェでのアルバイトをし、「もう仕送りはいらないよ。自分でやっていける」と言ってきた。

頼もしいなあ、と想いつつも、私を頼りにしてこない二人に、寂しい思いもあった。

無言のメッセージ

友達に
「かなみちゃんが頼らないで、という無言のメッセージを送ってるから、頼ってこないんじゃないの?もっと愛情あふれる親子関係を築きたいんでしょ。だったら、自分から、もっと『頼っやていいんだよ』っていうメッセージいっぱい送らないと」

と言われた。
頭をハンマーで殴られたように、ガーンという衝撃が走った。

確かに、私は、子供の見守りに徹して自分の愛情表現を抑えてきてしまったのかもしれない。

見守ることが「無条件の愛」だと思い込んでいたけれど、それは、私が幼いときに刷り込まれた経験が起因しているのかもしれない、と思った。

無意識のうちに私の母親がやってきたように、子育てをしてきてしまったのかもしれない。

私の母親は幼いときに母親に先立たれて、母の愛を知らない人だった。

私は母親から愛情表現を直接受けることはあまりなく、必死に働く母の背中を見て育ち、「頼っちゃいけない」と無意識のうちに思っていた。

そして、3人の子育てのときも母親から「手伝おうか」と言われても
「大丈夫、自分でやれる」と頑なに断り、産後も床につくことはなかった。

そんな私は、無言のうちに、子供に「親に頼るんじゃないよ」というメッセージを送ってしまっていたのかもしれない。

二男が教えてくれたこと

二男は、頑張ろうとしない子だ。
受験生なのにあまり勉強しようとしない。
私は、「できることがあったら言ってね」といい、敢えてあまり口出ししないようにしてきた。

すると、ますます勉強をしなくなった。
ファッションや髪型をいっつも気にして洗面所の鏡の前を陣取り、休日になると出かけていく。

黙って見守ることが親の愛、とまた自分に言い聞かせてきた。

でも、友達の言葉でふと思った。

それは間違いだったのではないか。と。

言葉にはありのままの自分の愛を乗せたほうがいい

「ママは心配しているよ」「でも、大丈夫だって信じてるよ」「いつでも頼っていいよ」「いつでも甘えていいよ」「何があっても味方だよ」

って愛情たっぷりに心のままに伝えることこそ、とても大切なことなのではないか、と気がした。

自分の言葉がプレッシャーになったり、子供を傷つけるのではないか、と恐れていた。

子供が小さいときのように、自分の愛情を体いっぱいで表現することをためらってきた。

でも、それは、きっと違う。

ありのままの、愛を伝えていこう。

言葉にしなきゃ、ちゃんと、伝わらない。

いいなと思ったら応援しよう!