ITSUDATSUとはどんな会社か(1/5)
ITSUDATSU社では「真本音」という考え方を軸に2020年3月に個人向けサービスとして“真本音を探求する9ヶ月”「KANAME Academy」、2021年8月に企業向けサービスとして“最優先育成人材発掘・抜てきサービス「KANAME」”、2022年7月に個人向けサービスとして“自分という可能性と向き合うポテンシャル診断サービス「KANAME Personal」”を開始し、これまで一貫して「ITSUDATSU(常軌を逸した成長)」を実現できる人材を社会に一人でも多く増やすことをミッションとして活動して参りました。
今回はITSUDATSU社とはどんな会社かについて弊社代表取締役の黒澤伶氏に弊社アドバイザーの村松がインタビューを行いました。
なお、今回のインタビュー記事は全5話の第1話目となります。
1. 代表:黒澤伶の生い立ちについて
1-1.幼少期から学生時代まで
村松:ITSUDASTU社を理解する上で、黒澤さんがどのような生い立ちなのかを教えてください。
黒澤伶(以下、黒澤):実家は岩手県の沼宮内という盛岡よりも北にある町です。沼宮内には東北新幹線の駅があるのですが、東京方面の便は2時間に1本しかない(ほとんどの便が通過する駅)という田舎ぶりです。
私には姉がいるのですが、生まれつき病気がちで入退院を繰り返していたため、母方の祖父母の家に預けられていることが多かったです。祖父母にトマトジュースをもらって、「強くなれ~」と言われて育ちました笑。
一方で、幼稚園の時は不登校でした笑。幼稚園がつまらないと感じていたのですが、劇の主役に抜擢されたのが思い出に残っています。セリフを必死に練習して、劇は大成功し、その時の経験が今の人前に出る一つのきっかけとなりました。
村松:幼稚園で不登校とは強烈ですね。小学生時代も気になります。
黒澤:小学校時代は小学5、6年生が印象的でした。私の住んでいた地元はとても田舎ですから同学年が13人しかいませんでした。
そんな田舎に岩手県でも有名な校長先生とカリスマな女性の先生が異動してきました。それまでの生温い小学校生活から大逆転で、厳しい生活になり、今の時代では考えられませんが、体罰も日常茶飯事でした。
しかし、父兄も「〇〇先生ならうちの子にビシバシとお願いします。」という感じで、信頼関係が絶大でした。リーダーシップ教育が強烈で、例えば、授業では通常は手を挙げて発言するのが本来かと思うのですが、手を挙げると怒るのです。
理由は、グローバルなビジネスリーダーは発言する時に手を挙げたりなんかしない、という理由です。また、授業で発言をしない人にも厳しく、授業で発言しない人はバリューがないという言い方こそはしていませんが(笑)、そんなニュアンスをずっと言われ続けてきました。
また、100マス計算や漢字検定など、修学旅行があろうが、夏休みだろうが、毎日5分でも継続し、継続する大事さを学んだような気がします。
一方で、厳しさの中に優しさもあり、一人ひとりを個別に丁寧に見て、フィードバックしてくれました。誕生日には一人ひとりにケーキも作ってくれて、ご父兄からも人気の先生でした。
今でも覚えているのですが、卒業式では全員が泣いていましたね。あまり卒業式で泣くイメージがないのですが、当時全員が泣いていたというのがどれほど人生に大きなインパクトがあったのか物語っているかと思います。
中学校に進学してからは私自身、自分の成長が止まってしまうのではないかと怖くなることもありました。
また、あまりにもこの出会いのインパクトがあったため、当時の私の夢は「教師」でした。人を導くこと、そんなことができるようになりたいと子どもながらに思いました。
村松:まるで天海祐希主演の「女王の教室」のようなエピソードですね笑。中学校では小学校とのギャップがあったのではないでしょうか。
黒澤:中学校はそこまで記憶がないですね笑。高校は盛岡で2番目の進学校に通いました。地方の進学校にありがちですが、東北大学に年40人合格させることがKPIの学校でした。
入学前は「自由の精神」と聞いていたのですが笑、入学後は東北大学に進学することが是とされ、早慶に行きたい自分にとっては極めて窮屈に感じていました。高校のカリキュラムは国公立大対策用に組まれていましたから、残念ながら現役では早慶には不合格でした。
村松:私はまさに国公立信仰の厚い地方の自称進学校から東北大学に進学したのでよく分かります。私は予備校で浪人しましたが、黒澤さんの浪人生活はどうでしたか。
黒澤:私は天邪鬼の気質が強いのか、誰かの協力で受かるというのが癪だったので、あえて予備校には行かず、自宅浪人をしていました。早慶と京都大学の人間総合学部を志望校にして、自宅浪人でかなり勉強しました。
朝の4時30分に起きて、21時まで約12時間〜13時間ほど自分でストップウオッチを使いながら勉強しました。2ちゃんねる(インターネットの匿名掲示板)を見て、参考書を探し、神と呼ばれる先生の参考書を通じて、高校生活では味わえなかった勉強の面白み、そして深さを感じました。
時間はかなりあったので、このときに、教養書と呼ばれるような本も相当数読んだ覚えがあります。もっとも知識欲が発散できた時代だったように思います。必死に勉強した甲斐もあり、早稲田大学の人間科学部に進学しました。
村松:宅浪は変態ですね。宅浪で成功している人はなかなか聞かないですよ。いよいよ都会での大学生活が始まるわけですが、どうでしたか。
黒澤:2010年4月に早稲田大学に進学しました。特待生で合格できたので、ほぼ無料で寮生活をしていました。
しかし、大学1年生はとにかく都会が怖くて(所沢キャンパスでしたが笑)、授業が終わるとすぐに寮に帰ってきました。寮長や寮母は、大学生活はサークル活動やアルバイト、遊びでエンジョイするものだと思っていましたので、18時半に食堂が開くと同時に食べに来る私は落ちこぼれだと心配されていました笑。
大学1年生の終わりの春休みに東日本大震災(2011年3月11日)があり、岩手県の実家に帰省中に被災しました。この震災をきっかけに人生について考え直すようになり、極めてアクティブになり、大学2年生から東京大学の教育の学生団体に所属し、東京大学の五月祭で大規模な討論系のイベントを企画したり、教育についてひたすら語り合ったりしていました。
この時に出会ったメンバーの中に、キャリア官僚になった人と起業した人がいて、今でも親交を持っています。
また、大学3年生では塾講師のアルバイトを始めました。塾講師で最も印象的だった出来事は、ある生徒の社会科の偏差値を1か月で30上げることを命じられ、睡眠時間2時間で教材作りに勤しんで、お茶の水女子大付属高校に合格させたことです。
「どのようにすれば、この生徒が社会科の勉強を自分のマンツーマン以外の時間に、進んで勉強したくなるのだろうか?」と常に自分に言い聞かせ、マンツーマン以外の時間の活用こそ腕の見せどころだと感じました。
変態的なエピソードですが、この1ヶ月の短期決戦のプロジェクトは体力勝負だと思ったため、レモンを段ボールで一箱買い、毎日レモンを丸かじりにして、体内をアルカリ性に保ち、免疫力をあげるなど、よく分からないこともしていました笑。なお、医学的に意味があったのかはよく分かりません。
結果的に、1ヶ月で生徒の偏差値は30以上も上がり、さらにその生徒は埼玉県の公立高校入試の社会科のみ100点満点を取ることができ、極めて嬉しかったのを覚えています。
このことが周囲に評判になり、遠方からも生徒がその教室に入塾したいと問い合わせが増えたのも嬉しい出来事でした。
この経験から「人の成長」が面白いとさらに感じるようになりました。
大学3年生の夏頃から就職活動があると思いますが、私の就活はあまり一般的な就活ではなかったかもしれません。あるご縁があり、就職活動の裏側を知れる経験を積むことができました。
その経験をもとに、まだ自分の就活が本格化する前に、大学の寮の先輩たちに伝えていきました。そしたら、先輩たちが軒並み総合商社や広告代理店に内定をもらい、「これはすごいな!」と自分でもびっくりして、大学4年生の時に、有償化して就活塾を始める原点となりました。
私自身の就活は複数の企業から内定を得たのですが、外資系のIT企業であるデル株式会社に入社しました。当時の私はかなりツンツンしており、就活の軸は「最も早く昇進できる」ところでした(笑)。
当時のデルはPCの箱売りから多数の有名な大手IT企業を買収していく最中で、IT総合ベンダーへとブランディングをグローバルで刷新している中での新卒1期生でしたので、キャリアのチャンスがあるなと直観的に感じたのが、決め手でした。
1-2.新卒からITSUDATSU創業まで
村松:黒澤さんにはどこかご縁を引き寄せる力が強いように感じますね。社会人生活をデルで始めたとのことですが、どうでしたか。
黒澤:デルの新卒は全員宮崎に行き、研修を受け、営業成績が良い人から、およそ3年で川崎本社に配属という実力主義の会社でした。外資系なので残業をしている人は仕事ができない人と思われます。
なので、17時に終業すると暇すぎて、ランニングしたり、神社に行ったり、就活塾(黒澤塾)とペットサプリ販売営業代行などの副業に明け暮れていました笑。
考えてみれば当たり前だと思うのですが、外資系企業は中途採用文化です。なので、新卒はかなり細分化された範囲内での仕事しかできなかったと感じました。
さらに、デルはオペレーションエクセレンスな企業だったので、いかに属人化をなくすかというマニュアルが徹底されていました。それは経営という視点から見ると正解だと思うのですが、私はそれが極めて窮屈に感じました。
「もっとこのやり取りに個性を出したいのに・・・」と思っても、それはNGだったのです。そうこうしているうちに、どんどん本業の方に魂が込められなくなり、一方で副業が伸びていき・・・(笑)
このままではまずいと思ったので4カ月でデルを退職しました。実は同期にもう一人全く同じ時期に離職した者がいて、親しくしていたのと、同じ早稲田同士だったので、人事に早稲田はもう採用しないと怒られました・・・。
そこから、真剣に自分のキャリアについて考え始めました。原点回帰して、本当の自分の探究したい領域に進もうと決めました。それがビズリーチでした。
もちろん、人材や教育分野への関心があったのはそうなのですが、一番は組織文化でした。圧倒的な組織の熱量を感じました。社員のみんなが青春を謳歌しているようにみえ、さらに、「人間らしく」にも見えました。
人間が人間らしく、辛いことも嬉しいことも、感情を丸出しにしながら事業を創り、世界を・社会を変えていく、そんな組織はそう会えるものではないなと思ったのです。
面接の中でも、最後はCTOの竹内さんとお話しする機会があり、「ビジネス職の採用で、僕が面接するのは3人目だね(笑)。ビズリーチは良くも悪くも動物園みたいな組織だよ。優秀な人もそうでない人も様々なレベルの人が共存しながら、だけど事業と人には本気な会社だよ。ビジネス部門のトップに多田さん(今はお亡くなりなられましたが、ビズリーチの元社長の方でした)をロールモデルに頑張ってみるといいよ」と言われ、入社が楽しみでした。
今振り返る逸脱エピソードは、入社初日の最初のビズリーチ創業のストーリーとミッション・ビジョン・バリューを当時COOの永田さんに研修していただいた際に、研修の最後の質疑応答で、真っ先に「この会社は副業OKですか?」と質問し、場が凍りましたが(笑)、永田さんが笑いながら、「面白いね!いいよ、俺が承認するよ」とおっしゃっていただき、なんて懐の深い会社なのだと思いました。
ビズリーチでの仕事は本当に楽しかったです。「ダイレクト・リクルーティング」という言葉自体が社会に、世間に少しづつ浸透していく、という新たな概念を生んでいき、啓蒙していくというプロセスを体験することができました。
良い事業と良い仲間、組織が急成長する渦中に入れたこと、本当に最高の経験がすることができたと思います。
当時のこの時の経験を組織戦略目線で寄稿しましたので、こちらも併せて興味があれば読んでみてください。
その後、私のお客様であった、コーチングファームとのご縁がありました。ビズリーチみたいな生き物のような組織を再現性高く、自分がリードできる経験ができないか、と思い始めていた矢先だったので、その会社に子会社の代表兼本社の役員で入社することになりました。
村松:宮崎での新卒生活はさすがに続かなかったですか笑。ビズリーチでの事業づくり・組織づくりの経験が後の独立にも活きているのですね。そして、コーチングファームでの経験が気になりますが、いかがですか。
黒澤:カルチャーで言うと、真逆でした(笑)。ITで世界を変えると言うビズリーチとポストイット(付箋)で世界を変えると言うコーチングファームです。
そのコーチングファームはもともとシリコンバレーの投資家であったユダヤ人がどんな組織であろうが成長するフレームワークを基にし、日本にローカライズした会社でした。
そのコンテンツは非常にパワーがありました。まさに、どんな組織であろうが、売上と利益は成長することができるかと思います。
一方で、これは「諸刃の剣」とも感じました。クライアントの売上と利益はどんどん成長することが実感できましたが、それはある意味「膨張」ではないかと私自身が疑問に感じることがありました。
成果は出る、しかし、疲弊しながら・・・。という何かを失い、売上と利益を得るという二律背反の構造に見えたのです。
私が前職でいたビズリーチは、もうお祭り騒ぎのような少年のような自由な心で事業も成長できていたよな・・・と。その時、私の中に問いが生まれました。
もっと、組織が膨張的な成長するのではなく、中身のある「進化型」の成長はできないかと。
余談ですが、私はこのコーチングファームの経験で、だいぶどんな困難なことも平然と捉えることができるようになったのは極めてありがたい経験でした。
極めて思い出深く、今でもネタとしてお話しするのですが、世界一暑い国“ジブチ”でダウンジャケットを100着売ったというプロジェクトも経験しました(笑)。
まぁパワハラと言えばパワハラなのですが、一見不可能なことを可能にするための一つの経験ということで、若手コーチで集まりやり切りました。
普通の人からすると、とんでもないなと思われるかと思うのですが、私はそのプロジェクトでストレス発散ができ、実はストレスで身体が結構まずい状態だったのですが(医者が言うには、明日脳梗塞になってもおかしくないレベルとのこと)、正常に戻ることができました。
ダウンよりもコート派ですが、ジブチとダウンジャケットに命救われ、感謝しています。帰国後もコーチングファームでの仕事は続けていました。
そして、ついに2017年に、後に弊社アドバイザーとなる竹内さんと出会いがありました。
村松:凄まじいパワハラですね笑。過労死寸前までになるとアフリカに渡航した方が健康になるとは・・・。それにしても黒澤さんブラック耐性がかなり強いですね笑。それでは、いよいよ竹内さんとの出会いについて教えてもらいましょうか。
黒澤:竹内さんとの初めての出会いは、2016年12月の忘年会でした。当時の先輩のコーチにご紹介をいただき、忘年会に参加しました。
その先輩がおっしゃっていたのは、「竹内さんとお話しする機会はそうそうないから、目の前に座ってどんどん質問してみて」って言われていたのですが、全く質問が出てこなかったのを覚えています(笑)
逆に、全てを見透かされているような・・・怖ささえ感じました。それからというもの、竹内さんとお会いする機会はちょこちょこあったのですが、常に彼の死角に入り、あまり関わらないように避けていました(笑)
その後、ご縁があり、2017年の夏に竹内さんの講座に初めて参加し、真本音出しをしました。「この言葉をプレゼントします」と竹内さん言われ、「素っ裸な変態」という真本音キーワードをいただきました。
この瞬間に今まで蓄積していたストレスがスッとなくなったのを実感しました。心が麻痺して何が辛いのもかも分からなかった私はこの状態が当たり前だと思っていました。
しかし、「素っ裸な変態」というたった一言で、心の状態がすっきりするのを感じました。
その後、「成果を出す」ということに関して、概念がガラッと変わりました。これまでは成果を出すためには、ストレスと犠牲が必要だとばかり思っていました。
それが、「こんなに楽に・自然体に成果ってどんどん出して良いものなのか・・・」と逆に不安になりました。しかし、この状態こそが、「普通」の状態なのだとも確信がありました。
ある日、竹内さんに誘われて、2人で飲みに行ったら、竹内さんに握手されて、これからビジネスパートナーになりましょうと言われました。しかし、コーチングファームでの仕事があったので一旦断りましたが、竹内さんは私が断ることを分かっていたようです。
しかし、あれよあれよと状況が一変していきました。そのコーチングファームの経営状況がある事情により、たったの4ヶ月ほどで倒産しました。
なかなか倒産を経験している方は少ないと思うのですが、これも良い経験でした。経営も組織も一気に悪くなる時は一瞬なのだな、ということを、身を持って感じましたし、こうなることも真本音で望んだ道だったのだろうなとは今では思います。
その後、私は独立という道を選択しました。しかし、独立当初は全くお金がなく、カードの支払いを全てやめ、全財産を銀行から下ろして机の上におき、一万円札が一枚一枚減っていくことを自分の目で見ながら焦りをバネとして頑張る、ということをしていました。
最初は家の要らない物をメルカリで売ることから始めました(笑)。学生時代にも起業していたので、リスク許容と何かしらをキャッシュにする力はあると思うのですが、学生時代とは状況が異なり、独立前は生活水準も上がり、日々の支払い等のマイナス分があったので、流石に少し焦りました。
しかし、人間不思議なもので、本当に死活問題になると、魂が入るのですよね(笑)。セールス魂が入り、月に40人、50人新しい人と会うことを決め、そうするとどんどん仕事が舞い込み、2018年は個人事業主で仕事に取組み、竹内さんとも一緒に仕事をさせていただき、2019年3月に株式会社ITSUDATSUを創業しました。
次回の第2話は、組織人事コンサルティングの現状と課題について詳しく説明します。