便所で考える
僕は漫画家の浦沢直樹先生のファンで、よく彼の作品を読みます。
その中で「MASTERキートン」という作品があるのですが、初めて読んだときにある言葉に衝撃が走りました。
学問はどこででもできる。
便所の中でもな
(平賀太平)
ここで言われていることは大学だけでなく、考えるということはどこででもでき、その一例として便所を上げています。
なるほど、本当にその通りだなと思ったのです。
この言葉をしばらく自分の中で熟成させていると、不意に、トイレで一回本気で思索してみようと考えました。
そして僕は、<ウンチ>ってすごいものだなあと気づきました。
どういうことか。
当たり前のことを聞きます。
ウンチはどこから出てきますか。
体ですよね。
ではウンチは何で出来るのですか。
食べ物ですよね。
そしてウンチが出る前は体の中で同化していますよね。
ああ~ここら辺に塊を感じるな~などとは思わないのですよね。
少なくともウンチをする直前以外は。
食べ物はこの地球環境からできます。
例えば米は日光、水、その他諸々の栄養分からできます。
日光や水といった地球環境から米ができて、それを食べて、自分の体と同化して(要は"="になる)、ウンチとなります。
つまり、地球環境=米=自分=ウンチとなるのです。
ウンチという存在を考えると自分はこの地球環境と繋がっている事が分かります。
子供達はウンチが大好きですよね。
その秘密がここから見えてくる気がします。
つまりウンチに魅力を感じるのはそこに自分がいるからです。
ウンチ=自分。
誰だって自分の分身がそこにいれば驚きます。
鼻水ももしかしたら似たようなものかも知れません。
自分が鼻水をかむと、どういう心理が働いてか、それをチェックしますよね。鼻水をキレイなものとは初めから思っていないはずです。他人のそれを見たいと思わないでしょう。しかし、やっぱり自分のはチェックします。
鼻水も、ウンチと同じく、自分の体の一部を成しています。自分を構成していたものが体外に出てきます。そして鼻水というものを通して、自分と対面します。自分と出会うから人間何度でも、きたない鼻水と分かっていても、チェックしてしまうのかも知れません。
鼻水もウンチも決して自分が作ったものではありません。
それらは元々地球環境全体から生まれたものです。
つまり自分と世界は繋がっている。
そのような究極すぎる結論を、便所で思索できました。
学問はどこででもできる。
便所の中でもな
深い言葉です。