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【本との出会い28】日日是好日 ~人生にも季節がある~ 森下典子さんのつむぐ優しくも思慮深い言葉、武田師匠の教え~

映画を観てからの小説でした。
大まかなストーリーがわかった上での読書でも、文字にされたことでその情景のうつろいや空気感のようなものまで伝わってくる、そんな作品でした。

「ああ、人生というのは、大事にしなきゃいけないな」
それが読後の感想です。

1.「なぜ?」と疑問を持つのは、ずっといいことだと思っていた

心に残ったい文章のいくつか記録していきたいと思います。


著者のこの思い、疑問、私も同感できます。
逆に「わけなんかどうでもいいから、とにかくこうするの」という武田先生の教えが、最初の方では「めんどくさがり」に感じてしまいますが、そうではない、そういう世界があるんだよ、と後からの自分の気づきにつながります。

お茶を習い始めたものの、著者はときより、というより数年たってもお茶の所作に「なんで、こんなことしなきゃならんのだ」と疑問を持つ場面があります。
そのときの、著者の心持ち、その原因の事象、を思い描きながら読み進むと、「そういう世界」に段々気づき、成長する姿がよくわかります。

2.ものを習うということは、相手の前に何も知らない「ゼロ」の自分を開くことなのだ。


何もわかっていない自分に気づいたときの言葉です。

つまらないプライドなど邪魔なお荷物でしかないのだ。荷物を捨て、からっぽになることだ。からっぽにならなければ何も入ってこない。気持ちを入れ替えて出直さなければいけない。
ものを習うということ

もうこのときには、お茶を通じて、かなり成長できていたということなのでしょう。
こうした謙虚な心持ができたということは。

いろいろ、抱えていたら持っていたら、これ以上新しいことなど、習い吸収することなどできない。ただ、なんとなく通過するか、自分のものにするかは謙虚であることと、捨て身であること。そういう教えでしょうか。

そして、次のような「境地」を感じるようになります。

3.何も思わず考えない「真空のような数秒」がやってきた。そのときすべてから切り離された気持ちよさを一瞬感じた。

境地に入ったような快感。すがすがしさ。そういうものを感じれることに、その世界に、お茶を習う人は向かっているんでしょうね。

ただ、普通に生活する、生きている心持では、感じることのできない、ゾーンのようなものでしょうか。

そして、このような感覚に進化していきます。

やめる、やめないなんてどうでもいいのだ。イエス、ノーかとは違う。ただ、やめるまでやめないでいる。それでいいのだ。
背負っていた荷物を私は放り出した。
ふっと、肩の力が抜けて身軽になった。

4.人間はある日を境に「二度と」会えなくなる時が必ずくる

お父様を突然亡くして、悲しみにくれるとき、後悔で自分を責め続けるときに感じたことです。

平凡で陳腐に思えた家族四人の団らんは、二度と戻らないものになっていた。その「二度と」の言葉の冷たさに私はたちすくんだ。

そして、何ができるだろうと、考えます。

会いたいと思ったら会わなければいけない。好きな人がいたら好きだと言わなければいけない。花が咲いたら祝おう。恋をしたら溺れよう。うれしかったら分け合おう。
しあわせな時は、そのしあわせを抱きしめて百パーセントかみしめる。それがたぶん人間にできるあらんかぎりのことなのだ。

それが、一期一会というものだと。

5.道はひとつしかない。今を味わうことだ。

なにか、デールカーネギーの言葉に似ています。
人は過ぎたことを悔やみ、未来を不安に悩むが、どちらも手出しはできない。

それを、お茶室の掛け軸、雨の日には雨の言葉を書いていた掛け軸に、気づくのです。
文字という記号ではなく、五感で感じるということを。

いつでも、ここにある。今を味わいなさいと。

「お天気が悪い」なんていう。けれど本当は悪い天気なんて存在しない。雨の日はこんなふうに味わえるなら、どんな日も「いい日」になる、毎日が

こんな気づきのチャンスが、誰にも、そこらじゅうに転がっている。それに気づきなさいというのがお茶の教えでした。

6.おわりに

印象に残った文章を記録してみました。涙でもなく、なんか、「ああ、そうだな」というすがすがしさ、それが残る本でした。

もしかすると、お茶じゃなくても、季節を、今を感じる方法はたくさんあるのではないでしょうか。

「二度と」の残酷を知っているなら、今をしっかり生きること、やりたいことをやること、苦境があってもそういう心持でありたいものです。



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