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7月16日は「駅弁記念日」
夢の中と書いて夢中。
路上駐車と書いて路駐。
僕たちはいつまで夢中でいられただろうか。
夕方5時のチャイムが鳴るまで時間が経つのも忘れて缶蹴りをして転んで膝小僧がすりむけても走っていたあの頃までか。
私たちはいつまで夢中でいられただろうか。
校舎から見える街はいつも暮らしている街と1ミリも変わっていないはずなのに、2倍くらい素敵で輝いて見えて、新海誠の映画のように何かしらの物語がはじまりそうだった。
だけど、特別物語がはじまることもなく、誰かと誰かが付き合っただの、別れただのそんな話を時間を忘れてしていたあの頃までか。
大人になった僕たち私たちは最近何かに夢中になっただろうか?
とりあえず死ぬわけにもいかないから、しかたなく毎日生きて、特に生きる理由が詳細に記載されているわけでもないのに、毎日スマホを見て他人の自尊心にいいねをつける毎日ですが。
駅のホームのベンチは5つ。
端っこに杖を持ったおじいさんが座っている。足が2本しっかり地面についていて、その杖もしっかりと地面についていて三点で支えられている。杖の上には老人にしては大きな手が置かれていて、
ただただの安定感だった。
もう一方の端っこにはスマホを持った若者が座っている。足が2本地面についているようで、地に足がついていなかった。スマホからの光が顔に反射していて現実感が乏しく、
ただただの不安定感だった。
そして、ぼくはその対照的な阿吽の呼吸象の真ん中に鎮座した。
駅のホームですることなんて電車を待つか、自殺するかしかないので、臆病なぼくは前者を選んだ。
視線の先、向かいのホームが見える。
そこにも全く同じような5人が座れるベンチが置いてあり、まるで僕たち阿吽の呼吸象の鏡写しのようだった。
向こうのベンチのも端っこには、安定感が座り。
もう一方の端っこには、不安定感が座っていた。
さて、ぼくが座っている真ん中の席には誰が座っているのかな?
夢中
夢中が座っていた。
駅のホームで駅弁を食べるのは普通のことなのかな? 駅弁って名前だしある意味正解なのかも。
ぼくに背格好も着ている服もそっくりの人が夢中で駅弁を食べていた。
その姿たるや、漫画の世界だったら頭の上に「ガツガツガツガツガツガツガツガツ」と浮いているし、今世界が崩壊しても何の関係もなく駅弁を食べ続けるであろうという気概があった。
その姿、正しい駅弁の食べ方つまりはお手本。
その直後、電車が線路に風と共に侵入してきて、風と共に去ったあとには、ぼくの鏡は割れて粉々になり、地面にはキラキラと砕けた鏡の破片が散らばっていた。もうぼくの姿を映すことはなかった。
7月16日は「駅弁記念日」