9月6日は「妹の日」
自分に「いもうと」というものができると聞いて、それはいつも行く商店街のどの店で売っているのか? いつ買ってくるのか? と聞いた。それを聞いてお母さんとお父さんは二人でリビングで顔を見合わせて、その後に笑った。その笑い方が気味悪かった。
どうやら「いもうと」はスーパーで「魚肉ソーセージ」を買う、電気屋さんで「単三電池」を買う。そのような簡単なことではないらしく、わたしもお母さんのお腹の中から出てきたと聞いたときは、飲んでいた大好きなカルピスの味がいつもより酸っぱく感じた、強い酸味を感じた。こんなことははじめてだった。
どんどん大きくなるお母さんのお腹。わたしは不安がどんどん大きくなった。大きなお腹にわたしもいた。今いるのは「いもうと」でそこからやがて出てくる。わたしは「いもうと」が出てきてほしい気持ち半分と、出てきてほしくない気持ちが半分で、ゆらゆら揺れた。
わたしは出てきた「いもうと」と仲良く出くるだろうか。「いもうと」は赤ちゃんだ。だからものすごく小さいはず。わたしはサンタさんにもらったお人形の首を取って、猟奇的な殺人現場のような状態にしたことがあった。お人形の首は案外すぐに取れて、あっけなかった。そしてその首がついた顔は相変わらずの笑顔で、お人形としての責任感の強さに驚いた。
わたしは「いもうと」にどんな風に、話しかけて、どんな風に触って、どんな風に「おねえちゃん」すればいいのか分からない。
あと少しで「おねえちゃん」なんだからね。
最近で一番嫌いな言葉。わたしはいつから「おねえちゃん」になったのだろう。それを考えるたびにカルピスの酸っぱさがこみ上げてくる。
おねえちゃんなんだから。
わたしは下を向く。何も言わずに下を向く。地面をずっと見る。公園で言われたときは蟻が歩く砂の地面を見て、リビングで言われたときはおもちゃが散らかるカーペットを見て、そこからお母さんの破裂しそうなお腹を最後には見る。
あそこには本当は何があるんだろう?
本当に「いもうと」がいる? そしてわたしは「おねえちゃん」?
あまりにも見ていると「触ってみる?」とお母さんに言われ、わたしはそっと触った。その瞬間に「いもうと」が足で蹴ったようで、お母さんが「動いたね」と言った。
わたしはその時すこし可笑しくて笑った。「おねえちゃん」は優しく触ろうとして、実際に優しく触ったのにいきなりキックをしてきた「いもうと」に。
そして出てきた妹と私がこの世で喧嘩するときは、口喧嘩ではなくいきなり取っ組み合いの喧嘩になるのだろう。妹はキックを炸裂し、私は首をギューギューとしめる。
そう考えると、「いもうと」もまぁ出てきてもいいかとも、思うのだった。
9月6日は「妹の日」