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繋がりすぎるのも考えものである。

いまとっても繋がりやすい社会になったように思う。

わたしはtwitterが大好きで、ツイートを通じて意気投合した人とゆるく楽しく繋がり合っている。

嬉しいことに、そうやって知り合った人たちと直接会う機会もあるし、まだ会ったことはないけれど、できるなら会ってじっくり話をしたいな、と思う人もたくさん。
オンラインというバーチャルな世界をきっかけに、オフラインでの知人がとても増えて、おかげで実現したこともたくさんある。そういう背景もあって、私は物理や時間的な制約を乗り越えられるSNSやオンラインコミュニケーションが好きだ。

ただ、困ったことに、この緩くて広い繋がりはいくつかのデメリットの側面があるということにも気づいてしまった。

会いたいけど会えない

繋がりやすい、ということは、「会いたい人と実際に会う機会 <<< 会いたい人と知り合う機会」という感じになりがちだ。
さらには、物理的な距離を超えられてしまうがために、なかなか会いに行く時間や機会に恵まれないことも多い。会いたい人リストに会いたい人がどんどんたまってゆく。

また、会えたとしても、会話が成立する適切な人数ってものがある。全員と交わろうとすると広く浅い会話しかできなくなる。
そうなってくると、ひとと会うのが息苦しい。基本の性格が根暗な私は、部屋の隅っこに、視線もうつろな感じでじっとしてしまうしか他ない。
だから、誰かと会うときは基本2~3人程度で会うのが私にはちょうどいい。相手とちゃんと会話ができる規模でゆっくりと話がしたい。

そもそも、「名刺交換だけする間柄とかよくわかんない、苦手、」って思ってるタイプなので、知り合うならちゃんと知り合いたいし、相手が何にテンション上がる人なのかとかが知りたいのだ。(たとえ、もう会うことがないかもしれなくても、その場で内容のない自己紹介をし合うんじゃなくて、ちゃんと会話を楽しみたい)

そう思うと、ふと、会いたい人ばかり増え続けてしまうオンラインのつながりやたくさんの人が参加するコミュニティやイベントも考え物だよなあ、と思ったけれど、直接会えない間もその人の気配を感じていられて、相手の素性が分かったうえで知り合い仲を深めていけて、今とっても仲の良い友人になった人がたくさんいるので、やっぱり私はオンラインがあるから今の自分があるのよね、とも思った。

いずれは自分で出会う総量をコントロールすればいいのだし、会いたい人にはちゃんと必然的に要所要所で会える気がしている。

愛を語れば、愛を語りたい人が寄ってくる。

直接顔が見えないことで、実際のコミュニケーションとは感覚が少し異なるSNS。楽しむコツは、「できるだけ愛を叫ぶこと」、に尽きる。

これが好きだ、これが最高だ。ここのこんなところがよい。

批判しようと思えば、結構なんだってケチを付けるのは簡単なことだ。
わたしも美味しいものや、素敵な場所によく出かけては、写真をUPしてアレコレ書いているけれど、どんなに残念なことがあっても、これイマイチだなーってことがあっても、あえてそこにはスポットを当てない。
書くとしたら、名指ししないようにはしている。

もちろん、紹介文として、行った人が損をするものについては言及するようにはしているけど、基本人の感じ方によるものがほとんどだと思うから、それなら私の視点の批判とかはできる限りしないでおこう、と思ってるだけだ。(もしかしたらときどき無意識にしちゃってるかもしれないけれど。)

愛を語れば、愛を語りたい人が寄ってくる。

これは私の持論。批判をすれば、批判をしたい人が集まってくる。人間単純だから、目に見えて仲間!と分かるところへ集まるものだ。そんなもんである。

だからSNSはできるだけ楽しく穏やかにのんびりした空気で過ごしたいので、なるべく直接会ったとしても恥ずかしくない自分のままのSNSライフを過ごしたい。

繋がりも発言も、ちょうどいい塩梅は難しいけれど、自分の適量がどれくらいなのか、というのは自分自身と常に対話しておくと、心地よく過ごせるかな、と思います。

7月も終わりそう。note、ちゃんと書きたいです。(最後に謎の抱負w)


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