サイレンの音
白い息、速まる鼓動、震える身体。
震えているのは、寒いからじゃない。
これまで感じたことのない不安と恐怖に怯えているからだ。
それでも、構わず自転車のペダルを必死で漕ぐ。
遠くに聴こえていたそのサイレンは、まるでわたしを責めたてるようにどんどん近付いてくる。
それと連動するように、更にバクバクと速まっていくわたしの鼓動。
音の正体は直にわたしの目の前を通り過ぎて行った。
急いで追いかけたわたしは、救急センターの前で止まった救急車の前に無造作に自転車を止め、座り込んでしまうのをなんとか堪えて立ち尽くす。
その中から運び出されてきたのは、母だ。
夢だと思っていたのに、本当だった。
担架に寝そべった母の顔は、まるで人形のようだ。
口を開け、顔は青白く、血の気を感じない。
それを見た瞬間、わたしの身体は更に硬直し、同じように一気に血の気が引いていくのをありありと感じた。
『おかあさん、、』
なんとか絞り出した情けない一言は、一瞬にして周りの大人の声によってかき消された。
『脳出血です。これから緊急手術に入ります。時間はどれくらいかかるか分かりません。ご家族の方は、待てるようならお願いします。』
母のあとに救急車から出てきた叔母も、とても動揺していた。母が仕事中倒れたその場に、唯一、一緒に居合わせたのだ。
もし彼女が居なければ、母は今頃死んでいただろう。
先に着いていた双子の弟も、『オカン!』と一言だけ発したあとは、ずっと黙っている。
東京に住んでいる姉にも知らせなきゃと、震える手で携帯から電話をかけた。
『もしもし?』
まだ残酷な現実を知らない姉の気楽な声。
その何てない日常を壊してしまう罪悪感を抱きながらも、声を振り絞る。
『お母さん、倒れた、、脳出血やって。
これから緊急手術するって、、、!!』
言葉に出した途端、堰き止められていた川が崩壊するように、涙が溢れ出てきた。
やっぱり現実なんだと突きつけられた。
『え、、、 ウソやん、、』
最初はさほど深刻ではないだろうと信じたがっていた姉も、わたし達の様子を感じ取り事の重大さを悟ったようだ。
いま思えば、遠く離れた姉は、少しでも近くで見守れていた私たちよりどれ程不安だったんだろうと思う。
手術が終わるまで、わたし達はICUの出入り口にある待合スペースで、なす術もなく待つしかなかった。
あれほど嫌な沈黙の空間はない。
時刻はもう真夜中になっていた。
気を紛らわせようとしたわたしは、足元にあったブックラックから雑誌を手に取り開いてみる。
『お前、何しやんのなよ。』
腹立たしさのこもった言葉を言い放ったのは、叔父だ。
わたしが子供の頃から何故だか母は弟である叔父と関係性が合わず、それを側で感じてきたわたしはその不穏な空気がすごく嫌だった。
そして、苦手だった母と共に、叔父のことも苦手になっていた。
叔父もそれを感じてか、母と同じようにわたしに対しても嫌悪感を抱いているのを強く感じていた。
『待ってるだけやし、しゃあないやん!もういいわ』
反抗期真っ只中だったわたしは、そう言い放ちお手洗いへ向かう。
腹立たしさと、受け入れてもらえない悲しさと、不安と、やるせなさ。
様々な感情で頭がいっぱいになっていたとき、身体に異変が起こった。
急に迫りくる悪寒。
それは足元から上半身にかけてどんどんと上ってきて、気分が悪くなり、立っていられなくなった。
『大丈夫ですか?』
お手洗いに入ってきた見知らぬ女性が、様子のおかしいわたしを気遣い声をかける。
『大丈夫です、、』
それしか言えずしばらく休んでいると、元の状態に戻った。
いまでもあの現象が何だったのか、よく分からない。
一体何時まで待っただろうか。
手術を終えた担当医師が出てきた。
わたし達に緊張が走る。
『手術は無事に終了しました。お母さんに少し会われますか?』
束の間の安堵もすぐに消え去り、再び恐怖に支配されそうな身体を奮い立たせて母の元へ向かった。
ICUにずらっと横に並ぶベッド。
その中央辺りに、母は居た。
瞳を閉じている母の顔は、先程と変わらず血の気がなく、まるで精気を感じられない。
これが、本当にあの怒ってばかりいた母なのか。
『おかあさん、、、』
わたしはまた弱々しく情けない一言を振り絞り、気の利いた言葉もかけられなかった。
自宅に帰ったわたしと弟は、大人が一人も居ない家で頼りない夜を過ごした。
普段は家のことなんて全くしない弟が、『やるよ』と、洗濯物を畳んでくれた。
せめてもの罪滅ぼしのように。
眠るとき、ベッドに入ると窓から見えた月が皮肉にも綺麗で。
涙を流しながら、月にお願いをした。
『お母さん、ごめんね、、 帰ってきて。もう反抗もしないし、文句も言わないから、、、』
その日から、わたし達の生活は一変した。
喧嘩ばかりしていたわたし達家族は、もう家庭崩壊寸前だった。機能不全家庭と言ってもいいだろう。
最後に見た母の顔は、高校を休もうとするわたしに対する怒った顔だ。
母が倒れたのは、新居に引っ越してきた次の日だった。彼女は1日しかあそこで眠っていない。
そして、その新居は、医療センターの目と鼻の先。そう、1日に何度も救急車のサイレンが聴こえるのだ。
しばらくは、その音が耳を塞ぎたくなるくらいに嫌だった。
でも、この日聴いたサイレンの音が一番耳に焼き付いていて、忘れることはできない。
あれから十数年経ったいまでも、サイレンが聴こえる度に、あのときの感覚や感情が思い出される。
母のことが頭によぎる。
無性に会いたくなる。
わたし達と同じように、家族や大切な人を失うかもしれない人のことを想像して、悲しくもなる。
でも、それと同時に、こんな経験をしたわたしだからこそ、伝えていくべきものがあるとも感じるのだ。