北関東の旅 下
ぐんまワンデーパス
いつもお読みいただき、ありがたうございます。玉川可奈子です。スキ!がたくさん付く人つてすごいですね。羨ましく思ひますが、どうして良いかわからないので、いつも通り書きました。
前回に続き、北関東を巡りました。自称、「孤独な万葉フィールドワーク」です。併せてお読みいただければ幸甚です。
今回は群馬県に行きました。この日は、浅草駅から東武線に乗ります。特急りょうもう号に乗り、旅ははじまりました。館林駅を出てしばらく行けば足利市駅です。東武線からは渡良瀬橋も見えます。
太田駅で乗り換へ、伊勢崎駅でさらにJR両毛線に乗り継ぎました。伊勢崎駅では、ぐんまワンデーパスを購入しました。これも前のときわ路パスと同じく、とても使ひ勝手の良く、便利なきつぷです。草津温泉や軽井沢にも行けるし、わたらせ渓谷鉄道などの多くのローカル線にも乗ることができます。
高崎駅から、生まれてはじめて乗車する上信電鉄の上信線に乗ります。高崎駅から下仁田駅間の約三十四キロの区間です。
高崎駅を出発してしばらく行くと、佐野のわたし駅があります。ここは、万葉由来の駅名です。
上毛野 佐野の舟橋 取り離し 親は離くれど 吾は離かるがへ (巻十四・三四二〇)
(上野の佐野の舟橋を解き放つやうに、親はあの方との仲を離さうとするけども、私は離まい)
駅の近くには、「鉢の木」で知られる佐野源左衛門常世を祀る神社と、藤原定家を祀る定家神社があるさうです。定家の妻がこの地で亡くなり、生前に定家を祀るためにこの神社を創建したとか。定家を祀る神社は聞いたことがありません。おそらく、ここだけでせうか。私はてつきり、「佐野のわたりの秋の夕暮れ」の歌にちなんだものと思つてゐましたが、さうではないとのことです。
上野三碑
金井沢碑
その次の、根小屋駅で降りました。今回の目的は私鉄の乗り潰しだけではなく、沿線にある上野三碑を見るためです。根小屋駅の最寄りは、金井沢碑です。駅から歩いて十分ほどで、碑のある場所に着きます。
この金井沢碑には、神亀三年(西暦726年)、三家氏といふ一族が先祖供養と子孫繁栄を願つて建て、「群馬」の地名を県内で最初に使用した貴重な事例が書かれてゐます。当時の家族、仏教思想、行政制度の普及の様子がわかるさうです。字を見ると、とても拙い感じがしました。
なほ、各碑の概要を駅で配つてあつたパンフレットに基づいて記しますが、細かいことは省略します。碑の原文や書き下し文など、より詳しくは、現地で実物を見るか、書物にあたつてみてください。また、現地にはボランティアのガイドさんがをり、丁寧に解説してくださいます。とても、ありがたいです。
多胡碑
金井沢碑を見てから、次は多胡碑を目指します。幸ひ、無料のバスが運行されてをり、それに乗りました。バスは三十分近く走り、多胡碑に着きました。乗客は私一人でした。
多胡碑には、和銅四年(西暦711年)、古代上野国に新たに多胡郡といふ名前の郡をつくつたことを記念して建てられたことが書かれてゐます。『続日本紀』和銅四年三月辛亥(六日)の条の記述とも合致してゐます。義公・徳川光圀ゆかりの那須国造碑(栃木県)や松尾芭蕉も『おくのほそ道』で訪ねた多賀城碑(宮城県)とともに、日本三古碑の一つに数へられてゐます。支那大陸伝来の書風を残し、書道史上の評価も高いさうです。江戸時代後期には、朝鮮通信使を通じて支那にまでその書風が知られたとか。
ガイドさんは、「セブンイレブン、サンキューと覚えると碑が理解できる」と言つてゐました。卓見です。
近傍の多胡記念館には、さうした古碑についても説明されてをり親切です。多胡碑の横には、県令であつた楫取素彦の歌碑があります。
深草の うちに埋もれし 石文の 世にめづらるる 時は来にけり
さすがは吉田松陰先生の義兄といふべきです。結句、「時は来にけり」に万葉の調べと、未来への期待、そして力強さがあります。
また、多胡といへば『万葉集』に次の歌があります。
吾が恋ひは まさかもかなし 草枕 多胡の入野の 奥もかなしも (巻十四・三四〇三)
(私の恋は今、この時も悲しい。多胡の入野の行く末も悲しい)
多胡の嶺に 寄せ綱延へて 寄すれども あに来やしづし その顔よきに (巻十四・三四一一)
(多胡の山に綱を付けて引き寄せても、どうして来ることがありませう。知らない顔をしてゐます。その美しい顔で)
前の歌を中西進氏は秀歌としてゐます。同感です。多胡の嶺、多胡の入野は、今となつてはどこにあるのかわかりません。おそらくあのあたりか、と考へるのみです。
なほ、多胡碑の中の穂積皇子は天武天皇の第五皇子です。左大臣の石上尊は石上麻呂、右大臣の藤原尊は藤原不比等のことです。
穂積皇子は、『万葉集』に四首の御歌を残されてゐます。その中でも私の好きなのが次の御歌です。
家にありし 櫃に鍵さし おさめてし 恋ひの奴の つかみかかりて (巻十六・三八一六)
(わが家にある櫃に鍵をかけて閉じ込めておいた恋のやつこがつかみかかつてきおつて)
皇子が宴の際、宴も酣になつたころ、好んで歌はれたさうです。過去の恋愛を引きづつてをられるのでせうか。私も八年にわたり、忘れられない方がゐましたから、なんとなく御歌の心がわかる気がするのです。
山上碑
多胡碑の次は最後の山上碑です。ここもバスで訪ねます。およそ十五分でバス停に着きました。乗客は前に続いて私だけでした。ここから碑のあるところまで、階段を登り五分程度の距離です。山上碑は、天武天皇の御代、西暦でいふと681年、長利といふ名の僧が母親の供養のために建てた石碑です。完全な形で残る石碑としては、国内で最も古いものです。日本語順に漢字を記した碑として日本最古ださうです。碑の隣には長利の母親が埋葬されたと考へられる山上古墳があります。中に入ることもできますが、カマドウマがたくさん出るとのことです。私は虫が苦手なので、遠慮させていただきました。
看板に、それぞれの碑をモデルにしたヤマピー、タゴピー、カナピーが描かれてゐますが、とても可愛いらしくて良いです。心の中、「ぬくぬく」です。
これらの碑を建てるにあたり、新羅系の帰化人が関係してゐるといはれてゐるさうです。万葉時代の様相を知るのに、良いヒントになつたやうに思ひました。
我も見つ 人にも告げむ 上毛野 多胡の入野の いしぶみところ 可奈子
また、これらの碑は平成二十九年十月にユネスコの「世界の記憶」に登録されたさうです。ただし、この「世界の記憶」はきはめて怪しいもので、南京事件に関する資料が選定されてゐます。南京事件とは、私に言はせれば「東スポ」の一面です。「東スポ」の一面は変チクリンな記事が目立ちますが、それが「世界の記憶」になつたやうなものです。げに間抜けな話です。
なほ、山上碑のところに次の万葉歌碑がありました。
日の暮れに 碓氷の山を 越ゆる日は 背なのが袖も さやに振らしつ (巻十四・三四〇二)
(日の暮れたころに、碓氷峠を越える日は、あなたの袖が袖を振る姿をはつきりと見えました)
袖を振る姿は、山を越える人に見えるはずがないのです。しかし、見えてゐるのです。見えてゐる、さう信じて振り続けるのです。その純粋さ、美しさ、これこそ、いにしへびとが私どもに残してくれた財産、「わが国の記憶」です。かうした素敵な宝物を、私どもはいつの世までも大切にしたいものです。碑も大事な宝物です。そして、いにしへびとのことのはもまた大事な大事な宝物です。
上信電鉄に乗る
山上碑を見てから歩いて西山名駅まで行き、さらにそこから終点の下仁田駅を目指します。暑い中歩いて来たので、駅で飲む炭酸水は格別です。途中、上州富岡駅は富岡製糸場の最寄駅ですが、車窓からその姿を見ることはできませんでした。
上州一ノ宮駅までは変はり映えのしない景色です。とはいへ、遠くには山々が広がる田園風景は、私の心を安心させるには十分過ぎるほどです。そして、千平駅から終点の下仁田駅までの一区間は、まるで山の中の木々の下を行く今までと様相の変はつた景色になりました。線路の真ん中で停まつたと思つたら、行き違ひの列車と交換でした。
終点の下仁田駅は風情のある駅舎でした。下仁田ネギは特産品として知られてゐますが、私は面白いかたちをした山に囲まれた街といふ印象でした。
上毛野 下仁田山の いはねふみ こひこし君に こよひあへるかも 可奈子
上りの列車に乗り、高崎駅に帰ります。ここに来る時に雲に隠れて見えなかつた、くろほのねろ、すなはち赤城山が夕陽に照らされて、さやに見えました。
上毛野 佐野の茎立ち 折りはやし 吾れは待たむゑ 今年来ずとも (巻十四・三四〇六)
(上野の佐野の野の青菜を折りとつて、飾りにして、私はあなたを待つよ。今年来なくても)
上毛野 佐野の舟橋 取り離し 親は離くれど 吾は離かるがへ (巻十四・三四二〇)
(上野の佐野の舟橋を解き放つやうに、親はあの方との仲を離さうとするけども、私は離まい)
さて、「佐野の舟橋」はどこにあつたのでせう。車窓を見て思案してゐたら、高崎駅に着きました。ここから地元までは、高崎線のグリーン車に乗つて帰ります。駅でつい、峠の釜めしを買つてしまひました。益子焼きの釜以外の簡単に捨てられる包装にしたのは正解でせう。そして、峠の釜めしは美味しいです。私の好きな駅弁ランキングでは確実に上位に来るでせう。
さて、二度にわたり北関東を記しました。身近な土地に注目し、フリーきつぷを使つて出掛けると、思はぬ発見があつたり、新たな知見を開拓できたり、楽しいことばかりです。
最後までお読みいただき、ありがたうございました。
(了)