のどがかわいた

のどがかわいた 大阿久 佳乃

・ひとは小説などに「共感」するといいますが、詩を読むことは共感以上のもの、むしろ「一体となる」経験を与えてくれる。だから詩は人生のひとつの鏡となる役割をはたしてくれるのです。


・人生には当然ですが、誕生日、入学のような名前をつけられる出来事だけでなく、まず日常がある。実際に過ごしている間は忘れそうになるけれど、こちらの方が大切というのは言うまでもない。

日々の苦しみ、日々の怒り、日々の疲れ。実に「何でもない」ことです。けれど、誰もがそれを抱え、それと戦っている。励まされたってどうにもならない。そう感じるような荒んだ心の時、励ましてこないからこそこの人の言葉は貴重です。乾いた土に水をやるように抵抗なく染み込み、潤い、いつの間にか心を柔らかくしてくれているのです。


・人と違う意見を持つことは素晴らしかった。先生が口ぐちに言うことをまとめると、「違う意見ほど堂々と言え」となった。本当に小学校というのは、真面目にやるほど損をする場所だと思う。どれだけ年齢を重ねても難しいそれを実践するのに、そこは最も向かない場所だった。

先生も、まわりの人も、大人はみんな、人と違うことはいいといい、実際にそれは正しいことのようで、しかしそれは、少なくとも小学生にとっては無理なことだった。


・「ここが嫌だ」というのは、「ここにいるから自分はだめなんだ」という無責任さにつながる気がして、恥ずかしい。しかし、否定しても、私はいつも何となく、ここにいてはいけないとか、このままではいけない、という気持ちに駆り立てられてしまう。それで日々をどこか落ち着きなく過ごしている。どうしてなのだろう。つねにここではない場所、いまではない時間のために行動してしまう。それは、現在を未来のための道具として使っている、ということでもある。

今に至るまでずっと、気が付けば、「今ここ」をおろそかにする癖が抜けない。「将来のために」。何をするにつけても、目標を目指す癖がつきすぎて、その場に生きている意識をなくしてしまう。だからおのずと自分の首を絞めている状態になっているが、絞められていない状態になるのもまた不安なのだ。


・「心の中に誰かが入るのを許したとたん、人は愚かになってしまう。でも何も望まなければ何にも負けないの。


・「長い目で見れば」というのは、何のための長い目なのだろう、と考えてみる。それは結局、”現在において”傷つかないためではないのか。


・時間を大切にしようとすればするほど、時間が惜しくなり、なんだか自分が無為な時間を過ごしている気がして仕方なくなる。そわそわする。もしくは、その取り決めを勝手に忘れては焦る。


・彼のそういったこと、私の気を滅入らせるようなことは、おおもとは同じ理由によるものなのかもしれない。”自分の価値観が他人にも適用されると信じすぎている”。そうやって分析すると、多少は気分が落ち着くのだった。そういうものだと思えてくる。分析するということは、対象を自分から少なからず遠ざけるということだ。


・人間にはいろんな面がある。それは知っているのだが、その人間という枠に、家族というものを完全に入れ込むのは難しい。そこかに家族は自分の一部であるという意識や、自分の理想が入り込んでしまう。




大阿久佳乃さんは、いろんなシーンを詳細に、丁寧に覚えている繊細な方なんだなと思った。

わたしの中のもやもやしたものを代弁してくれて、ありがとうございますという気持ちになった。

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