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「病気」も「性格」もひっくるめて「特性」としてとらえてみる実験を開始しました。
自閉症スペクトラム、アスペルガーなどとも言われるASDという症状について当事者から話を聞く機会があり、それについてものすごく考えるきっかけができたのでここに記しておく。
(詳しい症状やその時の状況は割愛する。)
(専門家ではないので認識が間違っていたらごめんなさい。)
ASDとかADHDについて考える機会を与えてもらって感謝。
— オゼキカナコ/長月 (@nagatsuki_life) December 4, 2019
なんかそんな気もしてたなぁという人に対して、その特性を理解してうまく対応できなかったことが今でも気になっている。
でも、今でも良く考えるけどどうしたら正解なのかはわからない。
ただ、そもそも会社側の体制や理解がどこまで及んでいるかにもよるから、安易に口に出せない気持ちもすごくわかる。
— オゼキカナコ/長月 (@nagatsuki_life) December 4, 2019
難しい。
ただ言えることは、病名が付いたから特殊ではなく、病気云々ではなく誰もがみなそれぞれの特性があり、社会生活においてはその特性が脅かされないよう暮らせたらいいなと。
最近の私のスタンスとしては、いわゆる社会的マイノリティと思われる人たち、症状のことを「病気」とか「性格」とか関係なく、「特性」として見るように心がけている。
(と、書くとなんだか自分はマイノリティではなく上から目線のような気がするかもだけど、その点については最後まで読んで。)
脳機能の異常や低下であったり、遺伝子異常であったり、「身体的に通常とは異なる」場合や「それにより過度に社会で生活しづらい状態」などを「病気」と診断されていることが多い。
ASDやADHDから、鬱、依存症など病名や症状はたくさんある。
診断された、診断されていない、というのは、社会生活において大きな役割を果たしたり、変化をもたらしたりする。
診断書があれば休業手当が出るとか、診断されたことで当事者自身が納得できたり(逆も然り)、周りの対応が変わったり(良い意味でも悪い意味でも)、など。
もし生きづらい何かがあった時、悶々と生きるよりも病気であると診断されが方が良い効果をもたらすのではないか?と以前は思っていた。
例えば「あなたは双極性障害です」と診断されることで、自分自身の納得感、病気なら仕方ないという諦め、家族や会社も「病気なら仕方ない」と対応してくれるのではないか・・・
なんて思っていたけど、どうやらそれは夢物語だったらしい。
実際、当事者の話を聞くと、おいそれと公表できることではない。
まずそもそも、自分がそう診断され、他者とは違う、自分は病気であるというショック、悲しみ、絶望、もしかしたら怒り。
人によって感覚は大きく違うと思うけれど、あっけらかんと現実を受け入れられる人の方がそもそも少ないのだろう。
例え自分自身が納得していても、さて自分ですらわからなかったことを他者が理解できるのか?
そもそもこの病気や症状を知っているのか?
知ったところでどう対処してくれるのか?
もしかしたら今まで通り接してくれるかもしれないが、腫れ物を触るようになるのか、拒絶されるのか、会社であれば待遇が変わるかもしれないし、暮らし方も変わってしまうかもしれない。
そんな未知の恐怖が想像される以上、簡単に自分のことを人に説明するのは困難な気がする。
でもそれって本当はおかしなことだな・・・とも思ったりする。
先日ASD診断されたと告白してくれた方は、「自分はこだわりが強く、時間に細かく、明確な指示がないと仕事ができない」と自己分析されていた。
すごいなあと思う。
病気であるないに限らず、自分の特徴(長所や短所)を明確にすることすら、なかなかできないことだと思う。
ここでふと、おや?まてよ、と思う。
例えば、「自分はこだわりが強く、時間に細かく、明確な指示がないと仕事ができない」というのは、明らかにその病気の特徴的な症状ではあるけれど(調べた)、そもそも「こだわりが強すぎる人」「時間に細かすぎる人」「ぼんやりした指示では仕事ができない人」なんて、よくいるじゃないか?と。
「病気」と、その人の「性格や癖」などを隔てているものはなんだろう?
診断されたかされていないか。
もちろん、診断には医学的な根拠があり、雰囲気で決められているわけではないから大きな違いはあるのかもしれない。
でも社会生活においてその特徴的な症状は、病気であろうとなかろうと「特性」という側面で見れば誰もが持っているものではないか?
そう思うと、病気ってなんだろう?性格ってなんだろう?「特性」とは誰もが自分の「特徴」として持っているだけのもの、ではないだろうか?という思考に行き着く。
私はすぐ真面目に考えてしまう癖があるけれど、社会生活において有利なこともあれば、そんなに真面目にならなくていいのにって思われることもしばしばある。
それは、周りがたまたまそれに対して理解があり、「あの子は真面目だから考えたきゃ考えればいいわ」とほっといてくれる寛容さによって救われている。
それが例えば「ここはもっとはしゃいで、周りのノリに合わせないと!考えるより感じろ!」と強制されたら途端に「生きづらい・・・」と思うだろう。
些細なことだけど、そういった「特性」による「生きづらさ」というのは、大なり小なり誰もが抱えているもので、それがたまたま社会的に理解されやすいものだったかどうかだけのことなのかもしれない。
日陰で楽しんでいたオタクが市民権を得て誰もが自称オタクを公表するようになったように、時代によって、環境によって、大きく変わっていく可能性もある。
「特性」は、濃いものから薄いものまで、グラデーションで、誰もが持つもの。
誰もが持つ「特性」であれば、少数派の特性を持つ人たちがたくさん集まれば「いろんな少数派の人がそこら中にいる=全体としての多数派」になるのではないか。
「特性」を知って、理解して、みんなが許しあって暮らすことで、何か変わらないかな?と、最近は考えている。
その点でも、まず知る、ということは大事なことだ。
— オゼキカナコ/長月 (@nagatsuki_life) December 4, 2019
今は社会的マイノリティと言われる人たちだけど、明るみにされて、みんなが何らかの特性があると知っていけば、いつか全員がなんらかのマイノリティ=全体としてのマジョリティになるのかもしれない。
特性があるのが普通、みたいな。
医学的根拠のある「病気」という診断と、社会生活における「特性」という判断。
答えはまだ見つからないけれど、これからも自分なりに考えて、いろんな人と対話して、知っていきたいと思う。
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