おばあちゃんの話
おばあちゃんは
母代わりに育てて、最後まで見守ってくれた人。
私にとっては お母さん。
『あんたら二人を生かすだけで精一杯だった。満足に育てる余裕はなかった』と言うけど、確かに母親の教育とは違ったと思うけど、子供の頃の思い出はおばあちゃんでいっぱい。
ケーキやスナックはほとんど食べたことないけど、おばあちゃんのおはぎが大好きで
年に2回位『今日はおはぎを作るよ』って言われたら、私も姉も寄り道せずに走って家に帰った。
スパゲティもハンバーグもほとんど食べたことないけど、おばあちゃんの混ぜご飯が大好きで
作ってほしい日は、混ぜご飯には欠かせない「セリ」を、姉と一緒に線路脇で両手いっぱいに摘んで帰った。
ジャスコで服は買ってもらえなくても、趣味の裁縫や編み物で手作りのワンピースやセーターを作ってくれた。
おばあちゃんの運転するテーラーの荷台に、姉と私が拾ってきた雑種犬の「チビ」と乗って、田んぼの脇で遊んだ。
1年に1回くらい豪雨で田んぼに行けない日に、何故か学校を休ませてくれる日があって
その日は昼からお風呂を沸かして、毎回おばあちゃんが『外は大雨で皆働いてるのに、私達は濡れずにお風呂に入って、贅沢たいねぇ』と言うのを覚えてる。
今も私はそれを休日の一番の贅沢だと思ってる。
家族で遊びに行ったことも、旅行に行ったこともないし
学校の行事にはほとんど誰も来なかったけど
そんなこと不満じゃない位恵まれてたなぁと思う。
でも
参観日に農業の合間を縫って、他のお父さんやお母さんに混ざっておばあちゃんが来るのが恥ずかしいと思った時もある。
運動会に誰も来れなくて、持たせられたお弁当が茶色いお煮しめと塩むすびなのが恥ずかしかった時もある。
他の子みたいに髪を伸ばせなくて、中学校に上がってもおばあちゃんの美容院でおかっぱにして、クラスで笑われてたのが悔しくて、泣いて反抗して困らせたこともある。
おばあちゃん悲しかっただろうな。ごめんなさい。
地元を出てから
「字を覚える練習」と言って、震える歪な字で沢山手紙を書いてくれた。
歳をとるにつれ「字が下手で読めるかどうかわかりません」と毎回書く様になって、それからは手紙の代わりに電話をした。
寝たきりになってからは「夜が寂しい」と言っていて、仕事終わりに約15年、ほぼ毎日欠かさず電話した。
ご飯なに食べたとか、また編み物してみたらとか、毎回ほとんど同じ話で疲れて他に話題が出ない日もあったけど、おばあちゃんが毎日楽しみにしている事が嬉しかった。
留守電に入ってる『〇ーちゃんですか、おばあちゃんですよ』のお決まりの挨拶も
『ここで話すことはおばあちゃんと2人の秘密たい』のお決まりのセリフも
元気のある時無い時、どのバージョンも全部覚えてる。
でもそのうち認知症が進んで
時間もわからなくなって、声も小さくほとんど耳も聞こえなくて、話が噛み合わず疲れが声に出てしまうことや
お父さんが亡くなって間もない頃、その時は毎回『子供を産んで、1人で帰って来ればいい』と言われるのが辛くて、すぐ電話を切り上げるようになって
最後の半年は寝る余裕もない位目の前の事に必死で、ほとんど電話をしないまま、お別れになってしまった。
毎日何でも話そうって言ったのに、最後の最後に寂しい思いをさせた。
ごめんね。
おばあちゃんの声も
おばあちゃんの字も
おばあちゃんと交わした二人だけの秘密の話も、全部覚えてるよ。
リクエストされたと言ったらかじかむ手で張り切って作ってくれた友達の分のセーターや自家製のお餅も
大阪の友達を連れて帰った時、身だしなみを整えてベットに起き上がって待っててくれたことも
動かない手で赤ちゃんの手を弱々しく握り続けたおばあちゃんの嬉しそうな顔も全部、みんな覚えてるよ。
おばあちゃん
そっちに行ってもう3年が過ぎたね。
そちらではもう不自由のない元気な体で、沢山編み物をして、好きな花を育てて
野良猫を引き連れて、苦労をかけた旦那や息子のケツをたたいて、楽しく過ごしているよね。
私も家族も、なんとか元気に過ごしているよ。
うっかりそっちに行くのはまだまだ先になるように、見守っていてください。
でもインターネットの手紙は、天国でも多分おばあちゃんは読めないね。笑
ずっと大好きだよ。ありがとう。
2024.7.29
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