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洗礼についての証

初めまして。あるいは、再び訪ねてくださって
ありがとう。

ここに、一人のクリスチャンとして、洗礼の証を記します。自己批判と問題提起を意識しました。一人でも多くのクリスチャンたちに届きますように。あなたに神の祝福がありますように祈ります。
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今年の4月に私が通う大学構内にある教会にて受洗しました。当時の私は満身創痍とはこのことか、と身に染みるような状態でした。互いの首を絞め合うような恋愛から退散して、痩せて貧相な身体を引きずるようにして、どうにか日々をやり過ごしていました。そうした日々の中で、悲観的に表現するならば、私は後悔の念に押し潰されていました。過ぎた時間、費やした金、傷付いた身体、ないがしろにされ続け鈍磨した精神、何もかもが元通りにはならないことを悟ったからです。そして、「これからどうやって生きていこう?」とその日一日の過ごし方すら分からず、混乱していました。たかが一つや二つの失恋で大袈裟だと笑われるかもしれません。私自身ですら滑稽だと思うのですから、それはきっと自然なことなのでしょう。なぜ私がおかしく感じるのかというと、そこに受動的かつ依存的で、快楽に弱い私の人生への在り方が写し出されているかのようだったからです。ここに私が受洗した理由があります。次に依存するのなら、神しかいない、と再び誰かに何かに頼り切ろうとする甘ったれた、すがるような心持ちで受洗することを決めました。そこには過去の自分を葬り、神との新たな人生への歩みに喜ぶような余白はありませんでした。酒や煙草、セックス、人間に身を委ね、それらが脆弱であることを知った私にとって、神は次の依存先でしかありませんでした。

このような心情で受洗をしましたから、額に水をかけられるくらいでは特に変化はありませんでした。水がかかった部分から一新されていけばいいのにと淡く期待しながらも、そこには額から伝った水滴で濡れた 以前と変わらぬ身体があるだけでした。しかし、全く変化がなかったわけではありません。洗礼を受けたことによって変化したことは他のクリスチャンとの関係でした。私が正直であろうとすると、不憫もしくは淫らな、軽視しても良い存在として見受けられ、ぞんざいに扱われるように感じました。普段は大口を叩いて「隣人愛」や「赦し」を謳う彼らは、神や聖書を盾に攻撃するのでした。私も彼らも罪に濡れた人間であり、イエスの血によって赦された存在であるはずなのに、「クリスチャン同士」である立場を使って、性的欲求を満たすために利用されそうになったり、聖書箇所を引用しながら罵られたりする毎に、悲しいほど、罪を赦され、犯し続ける「人間らしさ」を見出しました。それは彼らにだけではなく、他でもない自分自身にも、です。時に石を投げられ、投げ返し、投げ合うことだってあります。三度知らぬふりをして欺くときだってあります。私は憎たらしいほどに、虚しいほどに人間です。どれだけ心を尽くしても誰かを傷付けます。罪を犯します。ただ偶然にでもクリスチャンになったのならば、「この人は姦淫を犯しました。罪人です。」と腕を捕まれ、乱暴にイエスの前に差し出された人は、自分自身だということを忘れずにいたいのです。信仰を持っていることやその自分自身に酔いしれ、それを他人に誇示したくはありません。自分が神に支えられ、やっと立つことが出来る弱者であることを忘れず、誰かに手を差しのばせるようにありたいです。

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