見出し画像

「糸屋町 呂宋 住吉姫松社」…… 日本史上 初めてのフィリピン人 かも⁉️

✍️このほこらのある場所は、「繁昌町はんじょうちょう」に隣接する「糸屋町いとやちょう」になり、「繁昌町」ではありません。

✍️$${\text{「繁昌《はんじょう》神社」}}$$ 奥の院「班女塚はんにょづか」(繁昌町)さんの西南方角直近に鎮座ちんざされていますが、その 「繁昌神社」 さんや、醒ヶ井通さめがいどおり高辻たかつじ西南角に鎮座する「醒ヶ井さめがい 住吉神社」さんとは無関係


✍️$${\text{また}}$$、大阪市住吉貝塚市の 「岸の姫松ひめまつ」さん とも関連はないようです。



〓 「糸屋町」 ッて 〜 ⁉️ 〓


$${\text{  「角川日本地名大辞典」}}$$によれば〜「糸屋町いとやちょう」は、(近世~近代)江戸期~現在の町名。仏光寺通新町東入のちょう


$${\text{江戸時代初期}}$$の 1637(寛永かんえい14)年「洛中絵図らくちゅうえず」に、すでに現町名が見える。


$${\text{町名}}$$は「天正てんしょう」(安土桃山時代1573年〜1592年)以前、当町に「山林九郎右衛門」と称する 呂宋ルソン貿易の『糸商人』が居住し、『糸屋の町』と呼ばれたことによるという(『坊目誌ぼうもくし』)。


$${\text{江戸期}}$$は「たつみ組」、明治2年の町組改正より「下京しもぎよう9番組」、同5年「第11区」と改称、同25年「第11学区」に編成。明治12年 下京区「糸屋町」、同22年 京都市下京区「糸屋町」となり現在に至る。

「角川日本地名大辞典」より






〓 フィリピン人が祀ったと伝承されている「糸屋町 呂宋 住吉姫松社」 ッて 〜 ⁉️ 〓


$${\text{現在}}$$(2025年時点)、管理されている糸屋町いとやちょう」 の 路地の住人の方に うかがった内容と「角川日本地名大辞典の情報をとりまとめて$${\text{要約}}$$するとーーー     ⬇️  ---  ⬇️  ---  ⬇️


✍️ 歴史上の記録には残っていませんが…

$${\text{1594(文禄3)年}}$$の「ルソンのつぼ」 で有名な「呂宋ルソン助左衛門すけざえもん」より前の時代である天正てんしょう」(安土桃山時代1573年〜1592年)以前には、$${\text{「山林九郎右衛門」}}$$と称する 呂宋ルソン貿易の『糸商人いとしょうにんが居住し、『糸屋の町』と呼ばれていたことで、江戸時代初期の1637(寛永かんえい4)年には「糸屋町いとやちょう」が存在していたとされています。(「角川日本地名大辞典」より)


$${\text{その 呂宋(ルソン)貿易}}$$の『糸商人』と称する「山林九郎右衛門」が、呂宋(ルソン)から帰航きこうした際に フィリピン人を連れてきたとのこと。

$${\text{そのフィリピンの貿易商人⁈ }}$$を、さかいの港から京都に連れて来て、この「糸屋の町」あたりに住まわせ、そのフィリピン人達が貿易の仕事をしながら、日本の風習に馴染なじむよう 自分達の神社 として石碑せきひ何処どこかから運んできて、このほこらを造り まつられたとのこと。


$${\text{京都}}$$の幾多いくた大火たいか(1788年:天明てんめいの大火、1864年:元治げんじの大火 等)を乗り越えて、現在 「仏光寺通」から入る この路地の奥の繁昌町はんじょうちょう」の境目さかいめの場所に、今の形で存続してきている。


$${\text{以前}}$$は 長屋ながやであった この路地の住人の方達が、管理されてきているとのこと…


$${\text{また}}$$、今は そのやしろの直近東南方角ある地蔵祠じぞうほこら……昭和40年に「仏光寺通」にあった 「天道大日如来」と「延命地蔵大菩薩」の地蔵祠を遷座へんざ……と共に、守り管理されてこられてきているとのこと。


👁️‍🗨️「糸屋町いとやちょう 呂宋ルソン 住吉姫松社すみよしひめまつしゃ」の呼称名は、吾輩わがはいが命名しました。


✍️ $${\text{詳しく}}$$は、「菅大臣社かんだいじんしゃ」の宮司ぐうじさんがそのあたりのことは 知っておられるとのことでしたので、機会があれば 伺いたいと思います。







😎  $${\large\text{かないまへんな}}$$  👻


いいなと思ったら応援しよう!