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📿「十念蟻(十念ヶ蟻)」お~⁉ スゎっ-🙏

【副題】十念ノ蟻・束原道祖神瀟・䞀条戻橋・六角獄舎・粟田口刑堎・西土手刑堎・祇園祭山鉟蟻廻し






▶ 📿「十念ノ蟻じゅうねんの぀じ十念ヶ蟻じゅうねんが぀じ」🙏抂芁


$${\text{江戞時代}}$$の毎幎 旧12月20日は『果はおの二十日は぀か』ず呌ばれる 仕事じたいの日であり、たた その幎最埌の眪人凊刑 が行われおいたずいう。


$${\text{「六角獄舎(䞉条新地牢屋敷)」}}$$の囚人は、その日 『垂䞭匕しちゅうひき廻たわし』されながら凊刑堎に行く道のり---

「䞉条通」〜「䞀条通」〜「䞀条戻橋もどりばし」〜 再び「䞉条通」を、曎に 蛇行だこうしながら 南䞋し、

$${\text{「新町束原」 = 『十念ノ蟻』}}$$を分岐点ずしお、

・東の「粟田口刑堎あわたぐちけいじょう」もしくは、
・西の「西土手刑堎にしどおけいじょう」ぞ向かう際、

$${\text{新町束原}}$$で埅ち構えおいた「浄國寺じょうこくじ(浄土宗)」の僧達が、眪人に『十遍じゅっぺんの念仏』『十念』を送ったずころから、『十念ノ蟻(十念ヶ蟻)』ず呌ばれるようになったず䌝承されおいる。


$${\text{この地が}}$$遞ばれたのは、近くに『束原道祖た぀ばらどうそ神瀟』が鎮座ちんざされおいたこずに関連するずも䌝えられおいる。

$${\text{珟圚では、}}$$「束原通新町 の 亀差点」『十念ノ蟻』の西南角 2軒南隣りに、ひっそりず『束原道祖神瀟』が鎮座。


〓   『🙏十念(じゅうねん)』 お 〜 ⁉ 〓

👉 「南無阿匥陀仏」の念仏を十遍 唱えお、来䞖での埀生を願う  ずいう意味だそうです。


  〓 🙏  ã€Žå—ç„¡ 阿匥陀仏』の意味 🙏 〓

👉 「南無」→
発願ほ぀がん「どうぞお願いしたす」、垰䟝きえ「お任せしたす」ずいう意味。

👉 「南無阿匥陀仏」→
そのたた「阿匥陀様〜どうぞお願いしたす & お任せいたしたす」ずいう意味だそうです。


  〓 🙏 『十念』を唱える基本パタヌン🙏 〓

①なむあみだぶ   ②なむあみだぶ   ③なむあみだぶ   ④なむあみだぶ --- 息継ぎ

⑀なむあみだぶ   ⑥なむあみだぶ   ⑊なむあみだぶ   ⑧なむあみだぶ  --- 息継ぎ

⑚なむあみだぶ぀   ⑩な~むあみだ~ぶ~語尟を䌞ばす


$${\text{拙宅の近所}}$$にある「京郜垂䞋京区 束原通新町た぀ばらどおりしんたち」の亀差する四぀角蟻 が、『十念ノ蟻(十念ヶ蟻)』 お 呌ばれおいるこずを、昚幎(2024幎)に初めお知り、それ以来その蟻を通り過ぎる時は、心の䞭で『 南無阿匥陀仏 』を$${\text{十遍 念じる🙏}}$$ようになりたした。


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🗣 ≪  å€šãã®æ˜”からの 蚀い䌝え ず同じように 

䞊蚘の「果おの二十日」や「十念ノ蟻」の堎所ず匕導枡し行為 等 䌝承でんしょうに぀いおの説は、『民間䌝承』芁玠が高いので、“もっずもらしい“ 仮説を創䜜し繋぀なぎ合わせる手法で䌝承されおきたずの疑念ぎねん・疑惑ぎわくもありたす。

孊術的な“史実しじ぀“の説ずは 異なるずの 怜蚌論文 ず䞊べお〜いずれが正しいのか--- 吟茩劂きでは、刀断しかねたす旚 ご承知おきください
🀷‍♂🙇‍♂

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〓 🙏『十念ノ蟻』の本圓の堎所 お 〜 ⁉ 〓

📝「十念ノ蟻」の地点は、諞説あり
①「東掞院束原(『橘窓自語』)」
②「新町束原(『新撰京郜名所図䌚』)」
③「寺町束原(「果の二十日寺」)」
④「宀町束原」⁈
   â€Šãšã®èª¬ãŒã‚るらしい⁉

👉 共通しおいるのは、『六角獄舎』から䞋っおきお東西の刑堎ぞ分岐点ずしお通過するのは、東西を通る 「束原通た぀ばらどおり」であるずいうこず。

〓 「京郜垂の「通り」の衚蚘」  ïœ¯ãŠ 〜 ⁉〓

👉 個別の通りの名称に぀いお、「通ずおり」には 送り仮名「り」を付けない のが通䟋である。

👉 䟋倖ずしお、道路暙識では党囜暙準に基づき「通り」ずしお送る衚蚘を採甚しおいる。

👉 方角を瀺す「䞊る」「䞋る」 お 〜 ⁉
⚫䞊あがル   北進・北䞊する
⚫䞋さがル   南進・南䞋する




▶ 「束原通(た぀ばらどおり)」


$${\text{珟圚の}}$$  ã€ŒæŸåŽŸé€šãŸã€ã°ã‚‰ã©ãŠã‚Šã€ã¯ã€å¹³å®‰äº¬æ™‚代の「五條倧路ごじょうおおじ」ずしお知られたす。

$${\text{早くも}}$$ 平安時代から五條以南は廃すたれ、「五條通(束原通)」は郜の南端の道『境界きょうかいの道』ずしお、圓時の京郜垂民から捉えられおいたようです。


$${\text{それは、}}$$「束原通」を東に進み 「鎚川かもがわ」を越えるず、平安京の『䞉倧葬送地そうそうち』の䞭で䞀番芏暡の倧きかった東山の「鳥蟺野ずりべの」ぞず通じたす。

$${\text{「鳥蟺野」}}$$の入り口の 蟻「六道ろくどうの蟻」は、あの䞖ずこの䞖の境目さかいめ だず信じられおきた堎所でした。


$${\text{こうした}}$$由緒ゆいしょから、「五條倧路(束原通)」は あの䞖ずこの䞖を繋぀なぐ道 ず認識されおいたようです。


$${\text{それらの}}$$抂念は、埌の「江戞時代」にも匕き継がれおいたす。


〓 早ずちり👉 ″京郜の『野』ず付く地名『葬送地』″  ïœ¯ãŠ 〜 ⁉ 〓

👉 本来〜「野」は草地が広がっおいるなだらかな土地党般を指す蚀葉です。

  「野」の䞭のごく䞀郚、人里離れた淋しい所が『葬送地そうそうち』に遞ばれたずいうだけで、「野」の字が入っおいる所はすべお葬送地だったずいうこずではありたせん。

👉 京郜の『葬送地』は時代により倉わりたすが、平安時代からの『䞉倧葬送地』ず蚀われるのが、鳥蟺野ずりべの東山・蓮台野れんだいの玫野・化野あだしの西山です。

 ã“れら葬送地には確かに「野」の地名が぀いおいお、遺䜓を野原に眮いお、あずは鳥などが啄぀いばむに任せおいた圓時の『颚葬ふうそう』を反映したものでしょう。

👉 䟋えば、「北野」「平野」「玫野」などは、掛北䞃野しちの朝廷の犁野きんやずしお、皇族の埡猟・菜摘・遊芧の地ずしお保護されおきた地域で、そのどちらでもない普通の「野」もあり、「葛野(かどの)」は平安遷郜以前からの叀い地名です。





▶ 『垂䞭しちゅう匕ひき廻たわし』


$${\text{江戞時代、}}$$眪人たちは 牢屋敷から凊刑のため刑堎けいじょうぞ囚人を裞銬に乗せお運ぶ際に、掛䞭を芋せしめのため『垂䞭匕き廻し』が行われおいたした。


$${\text{『垂䞭匕き廻し』}}$$の道筋は、基本的に定型化された経路けいろでしたが、決しお 固定されおいたわけではなく、時には 眪人に由瞁ゆえんの堎所に寄るこずもあったようです。

$${\text{諞説}}$$色々あるようですが 基本的には 次のような蛇行だこう経路ずのこず。




▶ 「六角獄舎ろっかくごくしゃ」から 出発


$${\text{珟圚}}$$の「䞭京区六角通神泉苑しんせんえん」西南あたり䞀垯にあった「六角獄舎(䞉条新地牢屋敷)」から、出発。







▶ 「䞀条戻橋(いちじょうもどりばし)」  çµŒç”±


$${\text{ 「䞉条通」}}$$を東ぞ「油小路あぶらのこうじ」たで、「油小路」を 郜の北端であった「䞀条通」たで北進し、

$${\text{ここで}}$$䞀旊「䞀条通」を西ぞ1䞁(箄109m)匷皋 寄り道しお、「堀川」に架かっおいる「䞀条戻橋いちじょうもどりばし」に立ち寄りたす。


$${\text{圓時}}$$ 冥界ぞず぀ながる堎所ずされおいた「䞀条戻橋」で、眪人は 䞀旊 銬から降ろされたす。

$${\text{仏花ず}}$$華束逅けそくもちを䞎えられ、次に生たれたら真人間になるようにず申し枡されたず蚀いたす。


$${\text{そしお}}$$ 再び銬に乗せられ、先皋の 仏花ず華束逅けそくもち を持ったたた、「䞀条通」を東ぞ進み、人が倚い繁華街である「宀町通むろたちどおり」を右折しお南䞋。

$${\text{「䞉条通」}}$$で西に右折しお 䞀筋西の「新町通」を南ぞ䞋り、「束原通」「新町束原」亀差する蟻぀じ に達し、ここで 僧䟶達から『十念』を授けられたした。


$${\text{䞀説}}$$には、「䞀条通」を東ぞ進み、「宀町通」で右折しお、そのたた「束原通」たで盎進したずの説もあるので、匕き廻し経路が固定的なものではなかったずも思われたす。




▶ 「新町束原 亀差点」「十念ノ蟻」  刑堎行きの 分岐点


$${\text{「新町束原」}}$$の蟻では、「䞋京区寺町通高蟻䞋ル東偎 京極町」にある「浄國寺じょうこくじ(浄土宗)」の僧が埅ち構えお、眪人に『十遍の念仏』『十念』を送ったず蚀われおいたす。

$${\text{1 km以䞊も}}$$離れおいる「寺町通」の「浄國寺」からわざわざ僧がやっおくるのは、以前に「浄國寺」の和尚が托鉢たくは぀ 䞭に 匕き廻しの列に偶然に鉢合わせお$${\text{『十念』}}$$を授けたこずがあり、それ以埌 慣䟋 ずなったずも䌝えられおいたす。


$${\text{「新町束原」}}$$は、東の「粟田口刑堎あわたぐちけいじょう」行き、
若しくは 西の「西土手刑堎にしどおけいじょう(西ノ京刑堎にしのきょうけいじょう)」行きの$${\text{分岐点}}$$その由緒から、この堎所が 眪人達の成仏を願う『最埌の念仏の地』ずされたずの蚀い䌝えがありたす。


✍以䞊のように 䞀説では、

$${\text{⚫「䞀条戻橋」が「再生」を願う堎所}}$$

$${\text{⚫「十念ノ蟻」が「匕導」を枡す堎所}}$$

ずしお、察になっお 匷調されおいたす。


〓 「浄國寺(じょうこくじ)」 お 〜 ⁉ 〓

・1560(氞犄えいろく䞉)幎に、「五条(束原)東掞院」に開創されたが、「豊臣秀吉の郜垂改造政策」により寺町おらたちが造られ、1585(倩正十䞉)幎に珟圚の堎所「寺町高蟻」に移転した。

・江戞時代、近䞖(安土・桃山時代-江戞時代)ずも、京郜の眪人は、旧12月20日に『垂䞭匕き回し』の埌、「浄國寺」で受戒し、末期の氎を䞎えられた埌、『六条河原』に匕かれ凊刑されたずも蚀われおいる。



▶ 「 粟田口刑堎あわたぐちけいじょう 」行き🙏


$${\text{その埌}}$$ この「十念の蟻」から、䞀行は 東の刑堎である「山科区蹎䞊けあげ」にあった 京郜最倧の「粟田口刑堎あわたぐちけいじょう」たでのほが5km皋の道のり ---

$${\text{若しくは}}$$ 西の刑堎である「䞭京区西ノ京 西倧路倪子道」を少し西に行った「西土手刑堎(西ノ京刑堎)」たでの玄4km皋の道のり ---
ぞず、分岐しお 曎に行進したずいわれおいたす。

$${\text{圓時は、}}$$ 死を穢けがれずしお忌み、刑堎 は掛䞭ではなくあえお $${\text{掛倖に配眮}}$$たずのこず。

$${\text{江戞時代}}$$ の「粟田口刑堎」では、毎幎回の凊刑が実斜され、明治維新たでに 箄15,000人 の人が凊刑されたず蚀われたす。

$${\text{「粟田口刑堎」}}$$は、東海道が 東山を越えお京に入る手前の掛倖にありたした。

$${\text{明治時代}}$$になっお 刑堎が廃止されたあずは、明治初期の廃仏毀釈はいぶ぀きしゃくや 珟代にいたる開発によっお、䟛逊塔や経王塔などが砎壊され、道路偎溝の蓋石や石垣石などにされたり、『京阪電鉄京接線』の線路になったりしおいたしたが、京接線が『地䞋鉄』になるず、跡地を䜿っお道路が拡幅されたため、遺跡のようなものは残っおいたせん。

$${\text{珟圚は、}}$$道路端の山䞭に『石碑』を残すのみです。






▶ 「 西土手刑堎にしどおけいじょう 」行き🙏


$${\text{西のコヌス}}$$「西土手刑堎(西ノ京刑堎)」行きは、『十念ノ蟻』から「束原通」を西ぞ「倧宮通」たで進み、「倧宮通」を「䞉条通」たで北進し、「䞉条通」を西ぞ、埡土居の 掛倖 を北方面ぞ向かい、『壺井぀がいの井戞』に立ち寄りたした。

$${\text{その『壷井の井戞』で、}}$$『壷井぀がいの名氎めいすい』を 「末期た぀ごの氎」ずしお䞀杯 䞎えられた埌、「䞭京区西倧路通倪子道西入ル」あたりず䌝わる「西土手刑堎」に送られ、斬銖刑が執行されおいたずのこず。


$${\text{『壷井』}}$$の井氎 は、珟圚は涞れおいたす。

★ 『壷井の井戞 跡』 ず 『壷井地蔵尊』。この堎所から 箄100m東に「西土手刑堎」があったずされたす。



〓 「江戞時代の京郜垂の刑堎」 お 〜 ⁉ 〓

  江戞時代の初期、『京郜町奉行所』管䞋の䞻な刑堎は、

    ❶「粟田口」  
    ❷「西土手」  
    ❞「六条河原」

の䞉か所だったが、
次第に❶「粟田口」ず❷「西土手」
に固定されるようになったずされる。

📝❞「六条河原」の「六条通」は珟圚の「六条通」ではなく、おおよそ 珟圚の「五条河原町」付近、鎚川の西偎あたりず蚀われる。


  〓 🙏 「江戞時代 の 凊刑方法」 お 〜 ⁉ 🙏 〓

①磔はり぀け---
板や朚に匵り付けお槍などで突き殺す。

②獄門ごくもん---
斬銖しお3日間銖をさらす。死䜓は刀の詊し切りに䜿う。
眪ずしおは死眪より重く、磔はり぀けより軜い重刑であった。

③火刑かけい---
火を぀けお焌き殺す。火あぶりの刑。
火傷で死ぬこずより、煙で窒息死したり、ショック死するこずのほうが倚かった。






▶ 「 束原道祖神瀟た぀ばらどうそじんじゃ 」

★『束原道祖神瀟』から 『十念ノ蟻』を望む👀

$${\text{珟圚}}$$では、「束原通新町角」『十念ノ蟻』の西南角 南2軒隣りに、こじんたりず密かに「束原道祖神瀟」が鎮座されおたす。

$${\text{「束原道祖神瀟」}}$$に以前あった 説明曞き⬇ には『銖途かどでの瀟やしろ』の文字があり、神瀟には道案内の神である「猿田圊呜さるたひこのみこず」が祀た぀られおいるずいうのも興味深いずころです。

★ 以前掲瀺されおいた 説明曞き




























「束原道祖神瀟」は、平安時代から鎮座しおいたずされ、『今昔物語集』巻第二〇には「五条ノ道祖神(さぞのかみ)」、「宇治拟遺物郚」巻䞀には「五条の斎(さい)」ずしお蚘茉される。神瀟のすぐ北を通る「束原通(た぀ばらどおり)」は、平安時代の「五条倧路」にあたり、「枅氎寺」ぞの参詣道ずしおもにぎわった。そのため、道路や旅行の神ずしお信仰を集めた。

   çŸåœšã¯ã€ã€ŒçŒ¿ç”°åœŠå‘œ(さるたひこのみこず)」ず「倩鈿女呜(あめのうずめのみこず)」を祀っおおり、
・道の神旅の守護神
・塞(さい)の神厄灜を塞ぐ神
・倫婊円満家内安党
・瞁結び子孫繁栄
・商売繁盛
などの神ずしお信仰を集めおいる。

五月には「春の倧祭」、十䞀月には「お火焚祭」を挙行しおいる。

 â˜… 京郜垂が立おおいる 珟圚の「駒札」






























★ オマケ★ 『祇園祭山鉟巡行』 ず 『十念ノ蟻』   お 〜 ⁉

★ 「新町束原」北東角が ワザず削られおいたす⁉


$${\text{䜙談}}$$ですが、「新町束原 北東角」の建物は、添付の写真のように、わざず角が削られおいたす。

$${\text{それは、}}$$祇園祭の巡行の山鉟が「束原通」を通っおいた圓時の屋根瓊の家屋の時に、鉟の『蟻廻぀じたわし』をしやすいようにず〜その建物所有者様が角かどを削り 配慮されお建おおおられお、珟圚の建物に建お替えられた時にも、圓時の$${\text{名残り}}$$を残すために、今もワザず角を削った状態を再珟さいげんされた〜のでしょうか ⁉


$${\text{昭和䞉十幎}}$$たで〜祇園祭山鉟は、あの狭い道幅の「束原通」を巡行しおいたした。

$${\text{「寺町通」}}$$を「四条通」から南䞋しおきお、「束原通」を右折(西)しお、$${\text{「新町通」}}$$たで巡行し、「新町通」を右折(北䞊)しお「四条通」たで巡行しおいたのです。

★ 「束原通麞屋町」東南角に鎮座のご近所さんの通称「石䞍動さん or お䞍動さん」「束原䞍動(明王院䞍動寺)」さんの 掲瀺板 より


$${\text{実は、}}$$ただ「束原通」を巡行しおいた昭和二十幎代に、吟茩のガキの頃は 「束原寺町」の近所に䜏んでいたので、家屋の二階の瓊屋根に䞊がっお〜巡行䞭の鉟から$${\text{『粜(チマキ)』}}$$ を攟り投げおもらった蚘憶がありたす。

$${\text{今は昔}}$$


「寺町通」を「四条通」から南䞋しおきた鉟の いずれかの䞀基以䞊 は、「束原通」を西(右折)に$${\text{『蟻廻し』}}$$する時に、毎幎決たっお西南角にあった「郵䟿局」ず「林」さんずいう方がやっおおられた「焌き芋屋」の 家屋の屋根瓊の䞀郚を壊しお 隒いでいたこずを芚えおいたす。





    😎  $${\large\text{かないたぞんな}}$$  ðŸ‘»


いいなず思ったら応揎しよう