《往復書簡》 金川晋吾より④

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大崎清夏さま

 こんにちは。返信できないまま年をまたいでしまいました(今いったん「ずるずると年をまたいで」って書いたのですが、そんなことを書くと本当にそんな気持ちになったのでやめました。ずるずるなんてしていないはずです)。2020年になりましたね。2020年ってまだ書き慣れないです。
 いつも僕の性や欲望にまつわる話におつきあいいただきありがとうございます。大崎さんと松渕さん(「壁ぎわの記憶」の担当者さん)の三人で話しているとき、二人は女性で自分は男性で、自分が話していることの多くは女性に対する欲望の話なのですが、にもかかわらず、男性として自分がそこにいるという感じがそれほど強くなくて、そしてそれがとても居心地良くて、ついついいい調子で自分の話をさせてもらっています。
 ヌード写真のことについても考えていただきありがとうございます。「裸を見られること自体が性的なことの一部かもしれない」というのはそうですよね。その感覚は僕にもあります。ただその一方で、裸を見たり見られたりすることがそれほど性的ではない場合、あるいはまったくそうではない場合もあったりすると思うのですが、さらにそこにカメラというか写真が介在してくると、裸を見たり見られたりすることの意味合いが変わってくるようなところがあって、そこが僕はおもしろいと思っています。何を性的なこととするのかという境界のゆらぎに自分は興味があって、だから自分のヌードを他人に撮ってもらったり、他人のヌードを撮ったりしてるのだと思いますし、性的なことについて話したがっているのもそういうことだと思います。
 誰かのヌードを撮るということを考えた場合、越権行為という言葉が浮かんでくるというのはとてもわかります。ここで大崎さんが越権行為という言葉を出してくれたのはとてもありがたいというか、さすがというか、今後は僕もこの言葉を使わせてもらいたくなりました。
 越権行為という言葉は、一方的な暴力を感じさせる嫌なニュアンスを含みながらも、何かぞくぞくさせるものもそこにはあるような気がします。ヌードにかぎらず写真を撮るということ自体に越権行為と言いたくなるような何かが潜んでいると思うのですが、ヌードにおいてはそれはとくに顕著なのかもしれませんね。ただ、写真における越権行為というのは、必ずしも一方的で暴力的なだけではなくて、自分と他人、主体と客体、するとされる等々、そういう境界を揺るがすようなところがあると思います。
 自分は越権行為をしたいあるいはされたいからこそ、ヌード写真を撮ったり撮られたりしているのだと思うのですが、そのときに他者に対して暴力的にならないようにしたいというのもあるので、越権行為を一緒にしてくれる人が必要になってきます。だから現状は一緒に生活をしているパートナーを撮ったり、そのパートナーに自分を撮ってもらったりするということになっていますが、今後は別の可能性を探ってみたいとも思っています。
 自分のイメージを見るおもしろさについてですが、その理由のひとつにはやはり自分がこれまでたくさん写真を撮ってきたからというのはあると思います。単純に、いつも自分がやっていることが逆転することのおもしろさですね。自分がイメージを撮るのではなくて、自分がイメージになるということ。ただ、写真を撮ることにおける主体性というのははっきりとしないものなので、撮る側から撮られる側にまわったからといって単純に逆転が起こるわけではなくて、そういうところがおもしろくてやっているのだと思います。
 ここでおもむろに話は変わりますが、性的なことと同じく最近僕が話したいこととして政治のことがあります。と言っても、実際に話そうとすると何を話せばいいのかよくわからなくなって、全然うまく話せないのですが。
 悪い冗談みたいなことが起こり続けていて、それがまかり通っているとことに自分は怒りを感じていると思います。ただ、怒りを感じてはいるのですが、その怒りをどうすればいいのかわからず、怒り続ける体力も気力もなく、怒ってばかりいても嫌な気持ちになったりしんどくなったりするので、こなさなければならない日々の生活に意識を向けて、嫌なことは考えないようにするということをやってしまっています(ずっと考えてずっと怒っているだけでもしょうがないので切りをつけることはとても大事だと思いますが)。
 結局、自分が何かやったところでどうにかなるわけではないという無力感が根底にはあるのだと思います。政治のことを考えようとしても、自分ひとりがどうこうしたところで何も変わらないという気持ちになってしまいがちです。そういう気持ちになるのはよくわかります。よくわかるというか、これは僕自身のことです。
 たとえば選挙に行ったりデモに行ったりしたとき、ある瞬間には何らかの高揚感を感じることはあったとしても、自分の行動が実際に何か変化をもたらしたと実感することはとてもむずかしいと思います。むしろ、その後に何も変わらない現実に直面することによって、かつて自分が一瞬でも高揚感を抱いたことが恥ずかしくなり、何か変えることができるなんて幻想を抱いた自分が愚かだったと思うようになります。でも、そうやって感じている無力感というのは、実際にはとてもぼんやりとした中途半端なものであり、そんなぼんやりしたものにやられるのはやっぱりよくないと思うのです。何かを期待して高揚することはなんら恥ずべきことではないし、政治に対してもっと感情的になってもいいのだと思います。
 だんだん何を言えばいいのかよくわからなくなってきましたが、何を言えばいいのかわからないだけでなく、誰に向かって言えばいいのかもよくわかっていないのかもしれません。自分はぼんやりとした無力感にやられているけれども本当はそんなものにやられたくはないと思っている。今とりあえず自分が言いたいことはそういうことです。こういうひとり言みたいなことしか今はうまく言えないのだと思います。
 昨年はいろいろとお世話になりました。この文章は大崎さんに向かって書いているようで、ほとんど自分に向かって書いているようなものになっていますね。でも大崎さんがいるからこそこうやって書くことができています。おつきあいいただきありがとうございます。今年もどうぞよろしくお願いいたします!

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2020年1月14日
金川晋吾



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