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後田多ゼミで靖国神社巡検をしました

2024年1月6日
後田多ゼミ ゼミ生

2024年12月17日、後田多ゼミで靖国神社巡検をしました。当初は遊就館(靖国神社境内に併設されている宝物館)の見学も予定していましたが、改修により入館することがかなわなかったため、近隣にある昭和館の見学もしました。本noteでは、靖国神社と昭和館の様子や、訪れたゼミ生の感想を掲載します。

本noteに戦争の賛美や正当性を主張する意図は一切ありません。

靖国神社

九段下駅の階段を上がって日本武道館方面に坂を少し登ると、背の高い銀杏の木とともに一際目をひく靖国神社の大鳥居が見えてきました。入り口には立派な二対の狛犬と「靖国神社」の文字が彫られた石柱が構えられていました。(写真1)

【写真1】狛犬と石柱

大鳥居の右手に見えてきたのは、二つの大きな慰霊碑でした。ひとつ目は「常陸丸殉職記念碑」(写真2)で、これは日露戦争中の1904年(明治37年)6月15日に、輸送船の常陸丸が陸軍の兵士を満州へ派遣するため福岡県沖の玄界灘を航行中にロシア海軍の攻撃を受け犠牲となった船員及び将校を慰霊するために建てられたものです。その隣には、シベリア出兵が行われていた1919年(大正8年)の2月25日にロシアのアムール州で起こったユフタの戦いで20倍の敵軍に包囲され戦死した田中支隊の兵士たちを慰霊する「田中支隊忠魂碑」(写真3)が建てられており、戦死した一人一人の名前が刻まれていました。「慰霊の庭」には、全国47都道府県の陶工たちがその土地の土を使って作り上げた陶板が奉納されていました。飾られた陶板は日本の国花である桜の花びらがモチーフとされており、一つ一つが鮮やかな色で染められた作品となっていました。さらに本殿に向かって進むと、広場の中央に大村益次郎の大きな銅像が見えてきます。大村益次郎は1825年(文政8年)に長州藩の医者の子として生まれ、靖国神社の前身である東京招魂社の建立に尽力した人物であるとともに、蘭学者や兵学者として陸軍の創設にも尽力するなど、明治日本を支えた人物として知られています。銅像の先にある第二鳥居をくぐると、靖国神社の神門が現れます。神門の中央の扉にも日本の国花である菊の巨大な紋様が飾られていました。神門の先にも広場があり、桜の木が数多く植えられていました。今回訪れたのは真冬だったため桜の花を見ることはできませんでしたが、春は桜の名所として有名です。広場を抜け最後の鳥居をくぐると、荘厳な拝殿が姿を現しました。拝殿の前には賽銭箱が置かれ、大人だけではなく小中学生が参拝している姿も見られました。

【写真2】常陸丸殉職記念碑
【写真3】田中支隊忠魂碑

靖国神社は、1869年(明治2年)に明治天皇の勅命を受け大村益次郎らによって建立された、明治維新遂行のために命を落とした人々を祀る「東京招魂社」を前身とした神社です。1897年には社号を「国を靖んずる」という意味を込めた「靖国神社」に改め、近代以降の戦争の犠牲となった軍属・文官・民間の人々を祀るようになり、靖国神社は戦争の犠牲となった人々やその遺族の人々の心の拠り所となりました。しかし、その一方で靖国神社の存在はさまざまの問題を抱えていると言わざるを得ません。

冒頭で触れた、靖国神社の大鳥居とともに存在感を放っていた狛犬は、日本で造られたものではありません。実は、日清戦争の終結時に陸軍司令官であった山縣有朋が遼寧省海城の三学寺にあった「中国獅子」を明治天皇へ献上するため日本へ持ち帰り、天覧ののち靖国神社へ下賜されたものなのです。靖国神社側はこれを三学寺より譲り受けたものとしていますが、これを略奪文化財だとする意見もあり、実際に中国の団体が返還を求める動きもあります。

また、靖国神社は近代日本の帝国主義の象徴であるという見方もあります。靖国神社の神門はかつて日本の植民地であった台湾にあった台湾檜を使用して作られているため、これは日本による資源の略奪であり植民地主義を認めていることと同義であるという意見があるのです。さらに、靖国神社に併設されている遊就館も大きな問題とされています。遊就館とは、元々1882年に開館した日本初の軍事博物館であり、太平洋戦争終結後の1945年9月に「遊就館令」が廃止される以前までは旧日本軍の兵器や軍需品のほか、鹵獲した敵の兵器や軍需品を展示していました。その後GHQによる接収を受けたのち、改修工事が施され1986年に再開され現在に至ります。遊就館が批判を受けている点としては、日本の各国に対しての侵略を正当化しているという歴史認識があります。

今回の巡検では開館日の都合上入館することができませんでしたが、全面ガラス張りになっていたホールの中には、太平洋戦争で使用された零戦五二型や泰緬鉄道で使用されたC56型蒸気機関車が展示されている様子を見ることができました。

これらに加えて、A級戦犯合祀も大きな問題となっています。A級戦犯とは、太平洋戦争終結後の連合国による極東国際軍事裁判(東京裁判)において「平和に対する罪」で訴追された人のことで、この靖国神社では、A級戦犯として訴追され、刑が執行または勾留中に死亡した人を戦死した人々と合祀しています。実際に、1978年に東條英機元首相ら14人が合祀され、1985年8月15日の終戦記念日に中曽根康弘首相による公式参拝が行われると、中国外務省をはじめとした海外機関から、侵略戦争を正当化する行為であるとして強い批判を受けています。このように、靖国神社の現状は、「戦没者の魂を祀る神社」というもののほかに、日本の加害認識という点での歴史観と戦後処理の不十分さを孕んでいるという側面があります。

私は、「純粋に」戦争で亡くなった人々に対して追悼の気持ちを持つことは忘れてはならないし、彼らの魂を祀る場所というのは必要だと考えています。しかし、最も大切なことは、「侵略戦争などではなかった」と過去の戦争の正当性を主張することではなく、「戦争の持つ悲惨さ」「過去に日本が諸外国に対して何をしてきたのか」というものを私たちが認識して二度と起こさせないようにすることだと思います。そのためには、現在靖国神社が持っている過去の歴史認識を私たちが変えていくことが、その第一歩だと考えます。

昭和館

靖国神社から5分ほど歩いたところに昭和館があります。昭和館は、東京都千代田区九段南1丁目6−1に位置する国立の施設で、戦中・戦後(昭和10年頃から昭和30年代まで)の暮らしにかかわる歴史的資料・情報を収集・保存・展示しています。私たちは6・7階の常設展示を見学しました。

7階には「戦中の人々の暮らし」、6階には「戦後の人々の暮らし」をテーマにした内容の展示物がありました。平日の午後ということもあり私たち以外の来館者はまばらでしたが、外国人観光客の姿がよく見られました。

展示の内容は当時の暮らしの様子に関するものが主で、当時使用されていた服や家財道具などの日用品や空襲の被害状況にまつわる資料、当時実際に発行された新聞記事などもありました。

個人的に興味深かったのは、玉音放送を全文聴くことができる展示です。淡々と話されていましたが、掲示されていた文字列を見ながら聴いても言葉の意味はあまり理解できませんでした。放送された当時の国民も、天皇独特の言い回しのため玉音放送の内容をあまり理解できなかったという話を聞いたことがありましたが、実際に聴いてみると聞き取りづらさも相まって、その話も納得の難しさでした。

また、空襲中の防空壕内の疑似体験ができる展示も印象的でした(写真4)。1∼2人しか入れないほどの小さな箱の中に入りカーテンを閉めボタンを押すと、フロア中に響くくらいの大きな音と振動に襲われます。本物の空襲とは比べ物にならないとは思いますが、雰囲気を味わうことはできて怖かったです。

当初の予定には無かった昭和館の見学でしたが、有意義な時間にすることができました。

【写真4】防空壕体験
【写真5】井戸汲み体験をするゼミ生

まとめ

私たちゼミ生は皆、歴史民俗学科に所属しています。ゼミの担当教授である後田多先生はよく「せっかく歴史民俗学科に入ったのだから、歴史についてよく学んだ方が良い」と私たちに仰います。今回、靖国神社と昭和館両方の見学を通して、近現代史ゼミとして日本の歴史を学ぶ上で貴重な体験ができました。このような場所に行くというのは、この学科、このゼミに入っていなかったら無かったことだと思います。

靖国神社、昭和館ともに、外国人観光客の姿が多かったのが印象的でした。特に靖国神社に関しては、場所が場所なだけに驚きました。外国人が日本の歴史に興味を持ってくれること、日本の歴史的な場所に足を運んでくれることは国際的な視点からもとても良いことであると感じました。遊就館を見学することができなかったのはとても残念でしたが、機会があればリベンジしてみたいです。

【写真6】靖国神社 大鳥居

参考文献
・靖国神社公式HP https://www.yasukuni.or.jp 2025年1月6日閲覧
・東京財団政策研究所 『安倍首相の靖国神社参拝に対する中国側反応における深層』https://www.tkfd.or.jp/research/detail.php?id=1918 2025年1月6日閲覧
・東アジア教育文化学会『靖国神社と歴史教育 靖国・遊就館フィールドノート』明石書店 2013年
・昭和館公式HP https://www.showakan.go.jp/ 2025年1月6日閲覧

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