講義note:『物語 スコットランドの歴史』からみたナショナル・アイデンティティ(神奈川大学国際日本学部 教授 中村隆文)
みなさん、こんにちは。国際日本学部の日本文化学科教員の中村と申します。私は日本文化学科に所属してはいますが、これまでいろいろと欧米の思想・文化に携わった研究もしておりまして、その成果である『物語 スコットランドの歴史』(中公新書、2022)がつい最近出版されました。ここではその本の紹介とともに、スコットランドという国について簡単にご紹介したいと思います。
1.国or 地域?
スコットランド(Scotland)という単語については、みなさんはどこかで耳にしたことがあるのではないでしょうか?2019年にはラグビーワールドカップが日本で開催され、日本チームとスコットランドチームとが対戦したりもしました。フットボールでもスコットランド代表チームは国際大会に出場しています。国際大会に出場しているチームであることから、「あれ?スコットランドってどこにある国だろうか?」と疑問に思った人もいるかもしれません。
しかし、スコットランドという国は(いまは)ありません。正確には、「その国は1707年まではあったが、それ以降はイングランドと同様、イギリス、すなわちUK(United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)を構成する一地域となっている」と言うべきでしょうか。つまり、我々が「イギリス」と呼ぶ国には、イングランドもスコットランドもそこに含まれているのです(他にも、ウェールズと北アイルランドもそれを構成する地域なのです)。
2.ブリトン人とゲルマン人
我々がイギリスと呼ぶ国の(北アイルランドを除いた)大部分は、ブリテン島という大きな島で、これはかつてそこに侵攻したローマ帝国が「ブリタニア」と呼んだ場所です。ローマ人たちはそこで暮らす人々を「ブリトン人(ブリソン人)」と呼びましたが、彼らはローマ人たちと異なる言語や文化をもっていました。彼らは、ガリア地方(現在のベルギー、フランス、ドイツ西部あたり)に暮らすケルト人(Celts)が海を渡ったその末裔であり、大陸のケルト文化と共通しながらも独自の文化を築いていました。そこに、1世紀から2世紀にかけてローマ帝国がブリタニア侵攻を本格的に行い、ブリテン島の南半分あたりを支配しました。のちにローマ帝国は分裂し、西ローマ帝国は滅亡しますが、それにあわせて、ブリタニアに駐留していたローマ軍も撤退することになります。ただ、一部はそこに残り、現地人と交わりもしました(いわゆる「ローマン・ケルト」)。そののち、ドイツ北部あたりからゲルマン系民族が流入し、アングロ・サクソン系の国家が次々と樹立され、最終的に、そのうちの一つであるウェセックス王国が927年に諸王国を統一しました。これがイングランド王国(ウェセックス朝)の始まりといわれています。
しかし、これはブリテン島の南半分のハナシであり、北半分には別のストーリーがあります。そして、それこそが「スコットランド」の歴史なのです。
3.北部のピクト人とスコット族
ブリテン島北部には、ローマ人が「ピクト人Picts」と呼ぶところの、身体にペインティング(もしかすると刺青)をした人たちが暮らしていました。ローマ帝国の駐留軍はこの北部地域も支配しようとするのですが、なかなか抵抗が激しく、結局それを諦めてしまいます。そこで、少なくともローマ軍が支配するブリテン島南部にピクト人たちが攻め込んでこないよう、馬が乗り越えられない壁をとても長く築きました(122~132年の間に)。それがハドリアヌスの長城(Hadrian’s Wall)というもので、いわゆる西洋版「万里の長城」ともいうべきものです。
その後、ブリテン島南部はローマ軍の撤退やゲルマン人の流入によってわちゃわちゃになってしまいましたが、北部ではそこまでゲルマン人たちが押し寄せてはこず、ピクト人たちの国家群が形成されてゆきました。そして、5~6世紀にかけ、アイルランド西部から別のケルト人たちがブリテン島北西部に侵入してきます。ローマン・ケルトは、ブリテン島の西から襲撃するその人たちを「スコッティScotti」と呼びましたが、それはケルト系スコット族として「ダルリアダ王国」を形成し、それまでブリテン島北部で暮らしていたピクト人(ケルト系ピクト族)と対立しながらも、親戚関係を結ぶなどしていったのです。ピクト人たち部族の代表格である王家は「アルバ」と呼ばれていましたが、843年、ダルリアダ王国の王——しかし、その祖母はアルバ王家の王女であった――ケネス・マカルピンはダルリアダ王国とピクト人たちをとりまとめ、「統一アルバ王国」をつくりあげました。この統一アルバ王国はその後、ゲルマン系の英語がブリテン島全体に広がってゆくなかで、「スコット人たちの国」=「スコットランド」と呼ばれるようになります。
4.イングランドとスコットランド
こうしてブリテン島に二つの国家「イングランド」と「スコットランド」が成立したわけです。中世スコットランドにおける王位簒奪とイングランドの介入を描いたシェイクスピアの作品『マクベス』も、11 世紀にスコットランド王ダンカン1世から王位を簒奪したマクベスの栄華と没落、そして、ダンカンの子孫をイングランド側がサポートした史実に基づいています(もちろん脚色がされてはいるのですが)。中世以降、イングランドは常にスコットランドの王位継承や領土問題、外交問題に介入してきますし、スコットランドもそれに対抗するため、イングランドと親戚関係を結んだり、あるいはノルウェーと手を結んで軍事的強化をはかったり、フランスと手を組んでイングランドを挟み撃ちにするかのようにプレッシャーをかけたりもしました(なので、スコットランドは、フランスやノルウェーとの結びつきが強い国でもありました)。
そうして時は流れ、16世紀後半から17世紀初頭にかけ、テューダー朝イングランドの女王エリザベスに直系の後継者がいないことから、テューダー朝と血縁関係にあるスコットランドのスチュアート朝の国王ジェイムズ6世に白羽の矢が立ちます。そして、1603年、そのジェイムズ6世はイングランド国王ジェイムズ1世として即位し、スコットランドおよびイングランドは同君連合となりました。ブリテン島は「グレートブリテン」として一つの王冠のもとで統一されたわけです(そしてそのジェイムズ1世はスコットランドの国旗とイングランドの国旗を一緒にした、現在のユニオンフラッグの原型をつくったといわれています)。その後の市民革命期を経て、1707年、合同法により(つまり、イングランド議会とスコットランド議会の両国議会の承認を経て)同一君主・同一議会を抱く「グレートブリテン王国Kingdom of Great Britain」が発足し、それ以降、スコットランドおよびイングランドは「イギリス」(UK)という国家を構成する地域として今に至っています。
5.誇り高き「スコットランド」
現在、国家としてのスコットランドはもはや存在しませんが、スコットランドのナショナルアイデンティティ(国民的同一性)は現在まで続いています。彼らの多くは、普段は「ブリティッシュ(グレートブリテン人)」と呼ばれるよりも「スコティッシュ(スコットランド人)」と呼ばれることを好んでいます。実際、フットボールやラグビーの国際試合でもスコットランドはイングランド同様、国別代表として自分たちのチームをそれぞれ派遣しています。また、スコットランドの食文化や伝統文化というものは、いわゆる「イギリス文化」(ロックミュージックや大英帝国的な紅茶文化)とは一線を画すものとされています。それに、スコットランド独自の知識人・文化人などについてもスコットランド人にはかなりのプライドがあります。経済学の父アダム・スミスはもとより、蒸気機関の改良による産業革命の立役者であるジェイムズ・ワット、有名な医者であり小説家のコナン・ドイル、実用化電話で有名なグラハム・ベルはすべてスコットランド生まれの著名人です。スコットランドの人たちは、「大英帝国の発展において、スコットランド人はイングランド人以上に寄与してきたし、文化・教養レベルにおいてイングランドに劣ることは決してない」という強い自負があります。
日本とのつながりでいえば、前述のジェイムズ1世(ジェイムズ6世)はグレートブリテン王として徳川家康に使節を派遣しています。そのほか、明治維新の支援者でもあったグラバー商会の長トーマス・ブレーク・グラバーもスコットランド生まれです。日本のウイスキーの父と呼ばれる竹鶴政孝がウイスキーの作り方を学んだのもスコットランドにおいてでした。日本の百貨店などで閉店の音楽としてよく流れる「蛍の光」も、スコットランドの国民的詩人ロバート・バーンズの『オールド・ラング・サインAuld Lang Syne』が原曲となっています。
6.Welcome to Scottish culture!
このように、日本との関わりにおいてのみならず、ヨーロッパ、いや世界における文化・学術・産業に関しても、スコットランドが果たした役割というのは決して小さくはありません。もちろん、それはいまや「国家」としての体をなしてはいませんが、たとえ国家ではなくとも、そのナショナル・アイデンティティというものがしっかりと生き残り続けており、「文化」というものの面白さ・奥深さを教えてくれる好例でもあります(ただし、今後の情勢によってはUKから独立し、国家として復活することもありえます*この点も新刊では詳しく言及しています)。
こうしたスコットランドのあれやこれやについては、今度出る新刊にいろいろ紹介してあります。また、私のゼミでは、シェイクスピアの『マクベス』を一緒に読んだり、古代のケルト文化を調べますが、それだけでなく、スコットランドの食文化を学んだり、ケルト文化と日本文化(自然崇拝思想など)との比較も行っています。イギリスに興味がある人だけでなく、日本文化や民俗学に興味がある人も是非ご参加ください。