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拙い手でもひたすらに
守ろうとしたんだよな、あの日の私は。私が触れたもの、光も闇も全部。うん、ならそれでいいじゃないか。ここまで歩いてこれたじゃないか。自転にも逆らうように過去を向いて進んだ、霞がかった記憶の埃を払って抱きしめてゆくこの旅の終わりを、今日も隣で丸くなって眠る愛猫を見つめながら感じている。
(目を閉じて)
生まれて初めて、人の殺気というものを肌で感じた。憤怒とは、を見た。やられる前にやれ、敵に対峙する自分の中の魔物を知った。ふうん、人っておもしろい、私は結構なところに堕ちていると思ってたけど、まだまだこんなもんじゃないのね。私の知らない私を引きずり出してくれてありがとよ。来るなら来い、その時はまた新たな知らない私が現れるんだろう?もうどうせここまで来たんだ、全部出しちまおうぜ。
2階の部屋で金槌を片手に立っていた私の耳に、階段を駆け上がってくる敵の足音が近づいてくる。鏖魔ディアブロスか。私の名を叫んでいる、不穏な声色で何度も何度も、息継ぎもなしに。優しさのかけらもない無骨な騒音に怯えて震えるエメを見て思った。死ねよ。殺す。
kanako!!!!!!!!!!!!!
んだよおらぁ!!!!!!!!!!!!!
kanakoよかった、いた、oh,kanakoいたね、よかった。
………ん?あれ、かかってこないの?さっきまでの怒りに満ちた魔物が、安堵100ぱーの、ただの人間になっていた。武器をしまった。エメは警戒を緩めていなかった。
平穏な日々が続いた。調子がいい時は料理をした。誰かのためにご飯を作って喜んでもらうことの喜びを知った。暗い夜に眠りに落ちるまで、私を包む両腕のあたたかさに、彼は男で私は女であるということを知った。女、女の子、少女。これが結婚というものか。男に守られるということか。テンポラリーな恋人のそれではなく、この先ずっと死ぬまで守られるということか。ふうん、悪くない。いいえ、素敵。
心穏やかにってこういうことね。あなたは壊れかかった私を愛という名の魔法で以って治すために舞い降りた天使なのかもしれないわね。I LOVE YOU、愛している。ずっとわかったようでわかっていなかったような「愛している」の意味に、少し触れられた気がした。ほのかに甘い味。彼は私を愛してくれていたのだと思う。
家にいる間は。私がこの家から、一歩も出ず誰とも会わなければ。私が鳥かごの中でだけ生き続ける、可愛い鳥であれば。薬は減らずに強くなっていった。
悪くなかった。でも時に誰かに会いたくなって洋服を選ぶ時、メイクをする時、アクセサリーをつける時に、これが本来の私なのではと思った。外に出るということ、誰かに見られるということ、その時は可愛くありたいと思う心。出かけると楽しくて帰りたくなくなった。本当は遅くなることをもう決めていて、エメのご飯を多めに置いて出かけた。夜10時あたりから帰宅するまで鳴り止まない彼からのメールにも慣れた。はいはい、ah-hum,I see,I got it,I'm O.K.see ya. 電話なら無視した。私の時間をなんのためらいもなくぶち壊しに来る横暴なものがたとえ愛ゆえなのだとしても、じゃあ誰が私の世界を守ってくれるんだよ私しかいないじゃないか、そんなものは受け入れられないよましてや喜びでもなんでもない。結婚とはそういうものなのか?彼の理想と私のそれは相入れないのか?息が苦しい。
自由!神様、私に自由をちょうだいよ。私は彼だけのものだよ、そんなものあなたの前で誓ったじゃないか、だからこその結婚なのではないのか、いつだってどこだって誰といたって何をしていたってそれは変わらないんだよ、なのになぜ彼は私を信じない?彼以外の男には目もくれないよ、なのになぜ外に出る度に憤怒の魔物になる?嫉妬、ああ、私がこの世で最も醜く下等な感情とするあの嫉妬とやらに神よ、なぜあなたは彼をまみれさせるのだ?
今日はライブだよ、kanakoがんばってね見に行くよ、うんがんばる。衣装はどれにしようかな、このドレスにしようかな、今日のテーマはこれだからな、kanakoそのドレス胸元が開きすぎだよスカートの丈も短いし膝が見えてしまうじゃないか、そんな格好で男の前に立つのかい?なにそれ私は娼婦かなにかなのか、そりゃ男の子もいるけど私のファンには女の子もいるよ、それに彼らの前では私はいちアーティストであって、そういうんじゃないんだよわかる?
(嫉妬にまみれた目で私の胸元を無言で凝視する彼)
ドレスの胸元を両手で掴んで真下に引きちぎった。あなただけのものの私のこの胸が、男とやらの前でこうやって露呈するかもしれないことが赦せないんでしょう?そんなことあるわけないじゃん、バカじゃないの?あんたの頭ん中、そんな下品な想像でいっぱいなわけ?脳味噌性器でできてんの?ならここで一人で自分を慰めてればいんじゃん?射精すればちょっとはましになるかもよ?今日のライブ来たら離婚するから。
もううんざりだ。いってきますの代わりに深い溜め息をついて私は家を出た。
(目を開けて)
たぶん次で終われる気がする。あなたの時間を少しだけ、私にくれてありがとう。