焦点S
駅を出ると、ひとけのないロータリーがあった。
数分前に見た地図を頭のなかで復元して北西に進む。
粗いコンクリートの上でスーツケースががらがらと音を立てる。
「湯」と書かれた建物を過ぎ、曲がり角でもう一度地図を確認する。
白や薄鼠や灰鼠といった静かなトーンの家が続く。
バックパックは重くなったような気がする。
日除けがないのが惜しい暑さだったが、あと2分も歩けば今回の滞在先に到着することになっていた。
ただ足を進めた。
どこからか音楽が聞こえてきた。
駅の反対側に見えた海のほうから聞こえている気もしたし、自分のイヤホンから流れてきているような気もした。
けれどもイヤホンをしていないことに気づいて、音のみなもとを探した。
斜向かいの家の2階の窓が半分空いていて、そこから聞こえているのがわかった。
包み込まれるような立体感のある音だった。
私の両足が着いている――偶然に足を留めた――その場所のために音の焦点が合わせられたように、前後の奥行きと左右への広がりがちょうどよく響いた。
窓の内側の、光が届かないところで人が動くのが見えた。
頭部とシャツの襟ぐりの曲線に切り取られた部分に顔があるのがかろうじて見えた程度で、顔の皺も、髪の長さもわからない。
あちらはこちらのことをよく観察していたようだった。
「曲が終わらないでほしい」という気持ちを自分で認識するより前に、同じ曲がもう一度、始めから再生された。
「聞かせてもらえた」と思ったことで、曲が終わってしまわないでほしかったことに気がついた。
やわらかなリバーブのかかった、女性の歌う声とピアノ。
ふたつの音が私の耳の中ほどで溶けた。
曲が終わり、窓に向かってお辞儀をしてから歩き出した。
背中のほうでは濃厚なエレキギターによる What a Wonderful World のフレーズが聞こえてきた。
再び足が留まりかけても、「外で立体的な音に包まれた感覚」のことは最初の一曲で憶えていようと思った。
私に「必要な日」であった。