日常F
指について書きたくなった。
私の指はその10本で多くの仕事をする。
朝、けたたましく鳴る携帯のアラームを止める。3つしかないいずれかのボタンを押せばいい。スヌーズ機能もオフにする。この時は画面を操作しなければならない。
カーテンを開ける。寝巻きを脱ぐ。シャツを着る時は右手から、ズボンを履く時は左から。ボタンはやっぱり左側にあるといい。めがねのブリッジをつまむ。洗面台の脇に置く。髪をとかす。束ねる。冷たい水を迎え入れて顔を洗う。10本全ての指をぴたりとくっつける。もっとも、指が10本あることを認識するのは、指をけがして水がしみないように気をつける時くらい。隙間から水がこぼれて初めて、10本全て必要だったことを確かめる。
めがねをかける。ガスストーブの右隅のスイッチを押す。スプーンとマグカップを取り出す。封を切ってコーンスープの粉末を入れる。湯を入れ混ぜる。溶かす。口に運ぶ。パンを皿に出してオーブンのつまみを2分のところまで回す。その間にフォークを準備する。右手ばかり駆使していると思いきや、パンを右手で持つために、左手がオーブンを開けたり皿を支えたりする。
朝食後、なにがしかのタイムラインを追う。携帯の画面の上で、親指とひとさし指が何万もの文字を送っていくのに、時々ぴたりと止まって私に言葉や画像を見せてくる。閉じたばかりのアプリを開いたり、更新されない更新ボタンを押すのもこの指たち。彼らは、私が本当はそれを欲しくないことを知っていると思う。
パソコンを開く。左右どちらの指でも認証されるようにしたので、利き手が塞がっていても問題ない。キーボードを打つ。両手が、というよりは、9本の指がバラバラに動く。右手の小指は使わない。使えない。少し高いところからぴんと関節を伸ばして、他の指たちの動きを監督している。右手の薬指がエンターキーを叩く時だけは、なんだか申し訳なさそう。
本を開く。つやっとした文庫本の表紙に指がこわばるのがわかる。しかし、本文のページを指の腹で撫でて、その緊張を解く。栞のところまでページを送る。私の顔まで風も送る。栞は差したまま、次のページへ進む。区切りをつけたら、栞をそのページまで移動させる。私がその本と過ごした時間を、栞と指が知ってくれている気持ちになる。
手帖を開く。今年の手帖にはお気に入りの紙をカバーとして巻いた。それを切ったり折ったりしたのも指だし、今後撫でたり修復したりするのも同じ指だろう。灰色のSARASAを持つ。頭にあることば、または人から届けられたことばを紙の上に残す。ことばにならなくなったら、線や記号や図形になる。それらは意味のつながりを持たず、「書く」ことが達成されればよい。私の頭はすぐにランディングページがエラーを起こすから(記憶がリンクし合わないということ)、見える形で戻ってくる場所を作っておくのがいい(と言葉にできたのは近年だけれど、手帖は2009年から欠けていない)。
B5の紙を取る。仕事で使い終えたプリントの裏紙やミスプリがどんどん溜まっている。需要と供給のバランスが保たれない。ハードルを下げに下げた片面白紙のその紙に、絵とは呼べないものを書く。ペンが紙から離れない書き方を私の指は好んでいる。4か月で160枚。私が知らない線や形を指が知っている。
電話をする。そのためにイヤホンを取る。たいてい机のどこかで絡まっているのを、ほぐし、ジャックに差し、耳にはめる。通話ボタンを押すのが苦手な私をよそに、ひとさし指が頑張ってくれている。ちゃんと私にひと呼吸置く時間もくれる。苦手な理由をうまく説明できたことはない。同じように、電話を切ることも。「じゃあね」とお互いが2回言い合えば電話のほうが勝手に切れてくれる機能を望んだことがある。実現しなかったので、その大役は指か、電話の相手に任せることにした。
出勤しても、しなくても、いい日でも、そうでなくても、夜が来る。
元気でも、疲れても、指は変わらず働き続ける。
湯たんぽを入れる。ベッドから取り出して、シンクへ運び、中のぬるくなった湯を白いボウルに移す。石油ストーブの上で蒸気をあげるやかんを慎重に運んで、空の湯たんぽに注ぐ。湯を注ぐ音を聞きながら、友人たちが暖かい夜を過ごせることを祈る。徐々に軽くなるやかんの重みを指が感じ取って、ちょうどいいところで注ぎ口をくいと上に向ける。はずみでときどき溢れさせることもある。布巾でぬぐう。今度は空になったやかんに、白いボウルの(元)湯を入れて、再びストーブの上へ置く。すると、次は母が自身や父のために同じ作業を繰り返す。
stand.fmやインスタライブで話す。これらの開始ボタンを押すことは全然躊躇しない。想定された相手がいないからだろうか。口が動いている時ばかりは暇になる指たちは、イヤホンのコードや髪の毛をくるくる巻いて遊んでいる。はめた指輪の輪郭をなぞる。
髪を束ねていたゴムをはずす。アラームを3回分セットする。携帯を充電器に差す。暖房を消す。電気を蛍光灯から豆電球にする。ベッドに入り、腰まで布団をかける。足の指で湯たんぽの位置を微調整する。radikoや歌詞のない音楽や静寂からどれかを選ぶ。めがねをはずす。豆電球を消す。首まで布団をかぶる。一日働いた指がマットレスと腰の間にすべり込んで居場所を見つける。