降水R
久しぶりに外出した日、久しぶりに雨が降った。紺色の地にペールトーンの長方形が印刷された傘を持って私は家を出た。
傘の生地を突いたりつついたり揺らしたりはじいたりする雨。ステレオスピーカーさながらにその音が誇張される。傘を閉じても、耳の奥の、こめかみの内側あたりに残る。私に「こめかみ」というパーツがあることを初めて認識したような気分になる。駅に着いて階段をくだり、さらに長いエスカレーターに運ばれて地下鉄に乗る。車窓に水滴がついておらず、がっかりした。数秒前にまたいだホームの点字ブロックにだれかの手袋が落ちていたのを反芻する。網膜が捉えた色が呼び起こされたという感じだった。黄色い線の上で濃い灰色の生地がよく映えていた。拾い上げて人目につく場所へ移動させるだけの余裕がなかったことを少しの間、悔いた。
地下鉄が地上と地下を行き来する。いつのまにか、車内の床が濡れていた。だれかの傘から私の爪先に水滴が落ちた。爪先はそれに気がつかなかったけれど、私の目が見ていた。
地下鉄を青から赤に乗り換える。上りエスカレーターに乗って前を向くと、目の前に見覚えのあるカバンがあった。私の出身中学の指定カバンだった。白色で書かれた校章が、鈍い青緑色の生地に浮いている。背負っている学生服姿の男の子は母親らしい人とリラックスした雰囲気で話をしていた。受験だろうか。がんばれ。心の中でつぶやくと、彼らは別の電車を目指した。
赤い電車までの長い地下通路で、傘が私の目に飛び込んできた。淡いグリーンのロングコートを着た女性が右手に携えた傘だった。鮮烈な黄色一色で、彼女が腕を振って歩くたびにその石突きーーつまり先端部分ーーが私の目を刺してくるようだった。私は私の目を避難させるために、視点を自分の足元まで下げたり、逆に案内板も見えないくらいまで顎を上げたりしなければならなかった。地下の天井は低く、そこには今日のものではない雨漏りのシミがあるだけだった。
知らない駅に着き、サンジュウキュウバン出口を探した。JRと地下鉄が乗り合わせる複雑な駅で、「東口」のように四方位が冠された名前と、私の探す数字の名前とが混在していた。多少でも人通りが絶え間なくある花屋や百貨店の賑わいからは遠く離れた場所に、その出口はあった。
地上へ出ると、雨の音がひときわ大きくなっていた。目当ての本屋を見つけて立ち止まり、入口の機械の穴に傘を通してビニール袋に入れる。この作業をいつもたいへん煩わしく思うが、本を、つまり紙を、水滴から守るためなら何だってしたいと、思った。雨に包まれた建物全体が、朝の本屋の静けさを強調した。
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布地の傘よりも、ビニール傘の上で弾ける雨の音が好きだと気がついた。輪郭がはっきりして、丸い形を持ったままビニールの上を踊っているようだった。一方、私の傘で弾ける雨は、着地した瞬間に布の弾力に足を取られてぽてぽてとおぼつかなかった。
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傘を差し、一人で長い距離を歩いた。始めは住宅街。方向が合っているか心配になるほどの静けさの中、遠くを走るトラックの音をたよりに大通りを目指した。いざ大通りに着くと、どこにこれだけの人がいたのかと思われる慌ただしさだった。大きさのさまざまな車が、タイヤで雨水を引っぱりながら、記憶よりも大きな音で通り過ぎていった。あたりを見回しながら歩道を歩いた。幸い一本道だったので道に迷う心配はなかったが、タイミングが合えばバスに乗ろうと思っていた。バス越しに見る雨粒が好きなのだ。しかし、すれ違うのは反対方向へ向かうバスばかりだった。バス停を2つ通り過ぎる間に、知らない土地の名前を表示したバスを3本ほど見送った。やがて、大型の車が近づいてくる音に振り返ると、ちょうど目的地へ向かうバスが来た。しかしそこで、自分が反対車線にいることに気がついた。
水たまりでもびくともしないショートブーツを履いていたので、もう歩いてしまうことにした。最初にいた住宅街の静寂を思い出せないくらい、大通りのうるささに私の耳は慣れてしまった。少し耳を休ませたかったけど、どんな音も雨の膜に覆われて伝わるので、大丈夫だと思えた。
しかし、雨は私を音から守ってくれるだけだった。小さいライトを点けた車が通り過ぎるたび、その光は雨によって不必要に拡散されている気がした。とても眩しかった。土や木々や排気ガスのにおいをみだりに拡げ、私の鼻とにおいが水分を通して直接繋がってしまったようにも思われた。傘を顔に近いところで持ち直すよりなかった。
大通りをひたすら進む。色あせた看板、錆びた塗装、欠けた車止め、普段は目に留まらないものが網膜に張り付く。アパートらしい建物の入口、コンクリートの微細な凹凸の上に不釣り合いな素材を見つけ、足を止めた。五本指の手袋だった。片方だけ居場所をなくした手袋は、しかし落とされたままではなく、だれかによって人の目線まで掬い上げられていた。ぐっしょり濡れたそれを、もし持ち主が見つけてもきっと持って帰れないだろうなと想像した。
雨の日は落とし物が多い。以前銀座を歩いていた時は、飛行機内で使うようなネックピローが、外灯の柱に巻かれているのを見つけた。星や図形のイラストが描かれた、クリーム色の、視覚的にもやわらかなそれが、高級ブティックが並ぶ街に、だ。もしかしたら拾われたのは晴れの日だったかもしれない。けれど、私の目がそういった落とし物を見つけるのはたいてい雨の日なのだ。天気によって、視線の高さや見るものが違うのかもしれない。
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帰路。往路と違う路線に乗り込んで身体の位置取りを決め、めがねについた水滴を拭う。ハンカチの湿ったところだけ色が濃くなる。地上を走る列車。窓を伝う雨。こんな線は描けそうもないなどと嘆きながら、しっかりとブラウンの手袋をはめる。この手袋は雨中に落としてしまわないよ。心の中でつぶやく。モスグリーンのコートを染めたまだらな水滴を目でなぞる。
久しぶりの外出が透明な雨の中で溶けた。雨のしわざなのだ。全部。