木耳C
耳鳴りがするとき、自分に耳がついていたことを思い出す。
右耳には高音の、ソプラノリコーダーのような調子の音が数秒鳴る。近所の子どもがそれをうちで練習しているみたいな距離感で聞こえてくる。にぎやかなところで声を発しているときーーつまり、学生の前で話しているときや、外で電話をしているときなどーーに多い。やっかい。
左耳には低音の、冷蔵庫の稼動音のようなブブブという音が鳴る。自分のすぐ左にその冷蔵庫が置いてあるような距離感。頻度は右耳よりもずっと少ないが、十数分続く。騒音のない屋内外を歩いているときーー散歩中とか、家のリビングから部屋までの移動時ーーなどにはじまることがある。つまる。
また、夜、車通りも落ち着くころ、自室で大きく動かず声も発さずというとき、両耳がラップにくるまれたような感じになることがある。こちらは片耳のときよりずっと長く続く感じがする。しかし、たいていはその音に耳を澄まさないよう、何かで気をそらすので、何分続いているのかは定かでない。その間に、絵が一枚完成したり、手帖が文字で埋め尽くされたりする。
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イヤリングが揺れるとき、自分に耳がついていたことを思い出す。
イヤリングを買う時も、鏡を見ながらそれをつけるときも、耳のことなんか考えていない。そのとき着たい服に合わせてイヤリングを選ぶか、そのときつけたいイヤリングに合わせて服を選ぶか、だけである。ほかに思考が及ぶとして、これから行く場所、会う人、見るもの、食べるもの、などとの相性ばかりなのだ。
もともと化粧をする習慣がなく、イヤリング(を含むアクセサリー類)をつけるのも稀なので、つけるとなると少々浮かれる。浮かれるためにつけようとする節さえある。しかし、その浮かれ具合でいざ家を出ると、3歩ばかり進んだところでイヤリングと耳が、または、イヤリング同士が擦れて音を立てる。その音が、耳の存在を強調するのだ。
コーヒーをブラックで頼んだのにミルクがついてきたときのような、または、前の人が落としたかに思われた帽子を渡そうと声をかけて「違います」と言われたときのような、自分にとって不要な存在が際立てられる感覚。テーブルに残されたミルクピッチャーは汗をかき、右手の帽子はこころなしかくたびれ、イヤリングの音を受け容れられない耳は眼鏡を支える役割に集中したがる。
耳が「不要な存在」のはずはないのに、とも思う。そう思っているとき、それが「自分の身体の一部」であることを忘れて、「動物のもつ一器官」という認識に変わってしまっている、とも思う。
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「木耳」という漢字を見るとき、指が耳のほうへ行ってしまう。ついていることを確かめたくなる。
「キクラゲ」は、海中のクラゲと食感が似ていることから、樹木に生えるクラゲの意味で名付けられたらしい。一方で、漢名の「木耳(ムーアル)」は、その見た目が人の耳に似ていることからだそう。
前者から「木海月/木水母」とするよりも、「木耳」の字面の納得感が勝ってしまったのだろうかと想像する。
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耳鳴りも、イヤリングも、いいとこどりの単語も、たいへんに入り組んでいるような気がして、先述した以上のことを考えるのを止めてしまう。両目にとってのまぶたのような器官(知覚を遮る筋肉)が、両耳にはないので、意識的に使わないであげることが必要かもしれないと思うこの頃である。