積読? ああ、彼とは長い付き合いです。——積読に関するエッセイ
大掃除のため、黙々と本の山を片付けていた時のこと。
何年もかけてせっせと集めた積読の山。あっちの山は数年もの。
本棚から溢れた本はそれが最善の方法かはわからないけれど、一様に床へと積まれていく。歩くのに不便だし、地震は怖いし、もっといい空間の活用法がある気がしてならないのだが、今日も買いすぎた本を山の上へと積む。ツムツム。
苦手な掃除から現実逃避するように、手を止めて「積読」について考える。
読んではいなけれど本棚にしっかりと収まっている本は積読と呼べるのか? いや、やはり積むという行為が重要な気がする。
「本棚はその持ち主をよく表す」というのが私の持論である。さほど目新しい論でもないし、ありきたりだけれど、さも提唱者のように声高に言うことにしている。本棚にはその人の趣味嗜好が色濃く反映されているのは間違いない。
Uber Eats のCMで芦田愛菜ちゃんが背負っていたDIY本棚。あれはいい。読書家、皆が背負えば好みが丸わかりだ。まあ、およそ現実的ではないけれど。
しかし、読まれ得なかった、堆積している本にこそ本当の個性が現れるのかもしれないとも思う。
「買う」か「買わない」で言えば、あまたある本の中から選んで「買う」本であり、「読む」か「読まない」かで言えば、日常での優先順位の中で追いやられて「読まない」本。
その地層の下の方にはさぞ年代物の本が埋れていることだろうし、99%がすでに「最新刊」とは呼べないものにちがいない。つまり新刊書店などでは出会いづらくなっているわけで、眠っているそこを今一度あらわにすることで誰かにとっての偶然の出会いがあるのではないか。
それは読まなくとも積読を活用することにはなる。
ここでのテーマは「自らの積読を減らすこと」及び「新たな本を発見する機会を作ること」である。
部屋のスペースの問題から言えば、積まないに越したことはない。
「食べる分だけとる」猟/漁よろしく、「読む分だけ買う」のが健全な読書なのかもしれないが、貪欲なので面白そうな本があれば、ついつい買いすぎてしまう。
とここまで色々と書いてきたけれど、積読とは決してネガティブなものではない。合言葉は「まだ読んでいないだけ」。読んでなくとも価値はある。
ちょっぴり照れながら私、こんなものを積んでますと名刺がわりに見せていただきたいのです。まだ知らない本と出会うために。