さとりの書が見つからない
「悟る」という言葉を覚えたのは、間違いなくドラクエⅢの影響だ。
とにかく小さい頃から魔法を使いたかった私は、ドラクエでも必ず魔法使いか僧侶を選んだ。
レベルが上がって天職ができるようになると、賢者になるために「さとりの書」がいるというのは、私達世代には有名な話だが、幼心に「さとり」ってなんだろう? って思っていた。
聞きかじりの宗教的な知識によると、どうやら、悟った人は少ないらしい。やれ、お釈迦様やら、イエス・キリストやらと錚々たるメンバーが並ぶ。
そもそも、悟るってなんぞや? と言うのはイマイチよくわからないけど、大人になって、チラホラと「悟りたい」という人に出会う。数は多くないけど確実に存在する。
そもそも、悟りの定義が明確ではないし、人それぞれだから、あやふやなんだけど、その「悟りたい」人達は、自分たちでそれなり努力をしているので、なんとなく世の中の一般ピーポー達と自分たちは違いますという風を吹かせている。ノがそして、厄介なのは、その人についていってそれをもてはやす人達が一定数いると言うこと。
私は一時期、その「悟りたい」人と付き合っていたことがあって、その人は、めっちゃ瞑想しまくっていた。今となれば何がそんなに魅力的だったのかはよくわからないけど、「私が知らない何かを知っている」ということに魅力を感じていたのかもしれない。
でも、そういう人に限って、「お前は何も知らない」というマウントを取ってくる。一見、親切に教えてくれるフリをして、結局、人の無知を笑い、自分の通っている道しか正しくないということを言いたいだけなのだ。
でも、よくよく聞いてみると、「さとり」に近い体験はしているらしいけど、自分もそこにはたどり着けていないらしい。
それ、五十歩百歩なんじゃんって思うけどね、まあ、言わないけどね。
多分、自分の人生で見える世界って70億人いたら、70億通りある。だから、誰も同じ道を通れないし、別段修行しているわけでも冒険しているわけでもないから、何をしたら「さとりの書」がもらえるのかとか全くわからないけどさ、私はあるかどうかわからない「さとりの書」を求めて迷走するよりも、自分の人生から逃げずにいたいな。
人から見てかっこ悪くても、誰かから見て正しくないやり方をしていても、自分がやりたいことときちんと向き合う自分でありたいなと思っている。「さとりの書」は見つからなくても、自分の人生は全うできるような気がするの。
でも、青い鳥みたいなもので、「さとりの書」は案外自分の近くに転がっていて、無意識のうちに手にしているのかもしれないな、なんて、そんなふうに思ったりするよ。