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[短編小説]魚鱗(後編)

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まだ、人と話すことに慣れていない私は今回もしどろもどろだった。

「あるには、あるけど、早く夕飯作らないと遅くなるし……」

「少しだけ、うちに寄っていかない? 見せたいものがあるんだ」

断る理由がなかった。初めて人と放課後にどこかに出かけるという経験。喉から手が出るほどやりたかったこと。こんな私でも体験できるんだとドキドキした。しかも同級生の男の子の家。別に彼氏でもなんでもないけど、岩田君だからソワソワするのだろうか。

岩田君の家に行くと、お母さんが出迎えてくれた。彼女もまた、私のことをじっと見つめてにこやかに挨拶してくれた。なんだか魔法がかかったみたいに身体が治ったのかもしれない、そんな風に思ったけど、玄関脇の鏡に映る顔はいつもの醜い顔だった。夢かもしれないと頬をつねる必要すらない現実の姿を映し出していた。

「これ」

ダイニングのテーブルに招かれてちょこんと座ると、岩田君がアルバムを持ってきた。

私のように、皮膚が炎症でボロボロになっている男の子の写真だった。

「三年生の時の俺。転校が多かったから、ストレスだったのか急にこんな風になった時期があって。その時にクラスのやつらに陰で半魚人って呼ばれてた。だから、吉川さんが半魚人って呼ばれていたのを許せなかったんだ」

「治ったの?」

信じられなかった。写真の中で不機嫌そうにしている小さい岩田君は、今の面影がまるでなかった。私の小さい頃、と言った方が、あるいは信じてもらえたかもしれない。

「うん、治った。うちの母さんが、色んなこと調べてくれて、色んなことさせられた。嫌だったことも沢山あったよ。まずいものもあれば、好きなお菓子とかも食べちゃダメとか言われたりして、やめたいこともあったけど、良くなったんだよ」

「私も、岩田君みたいになれる……?」

「それは確約はできないけど……」

それでも可能性が1%でもあるならすがりたかった。時々、岩田君の家に寄って、彼のお母さんと肌のことを一緒に勉強する約束をして、家に帰った。岩田君の家からの帰り道の夕日は、いつもに増して輝いていた。

***

「ねえ、あんたさ、自分の顔を見てイワタクンと接しているわけ?」

調子に乗りすぎた。岩田君が私と普通に話してくれるせいか、周りのクラスメートも少しは言葉を交わしてくれるようになっていた。だから、岩田君とよく話す女子グループに呼ばれたときに、何の警戒もなくついてきてしまったのだ。裏庭の陰までのこのことついてきた私に、さっきとは明らかに違う冷ややかな声が降ってきた。

目の前の相手は、一向に怒りが収まらないようだった。

「ずるいじゃない、あんたは、見た目のおかげでイワタクンに気にかけてもらって!」

分からない程度にうっすらとメイクした顔は、同じ学年には見えないくらい大人っぽくてきれいだった。取り替えられるのなら替わってほしいくらいきれいな顔をしているのに、私のことを確かに「ずるい」と言った。それに驚いて文句をいう彼女をマジマジと見つめた。

「私が……ずるい?」

「そうよ、同情してもらってずるいじゃないの」

「でも、私は、この症状が治るように岩田君のお母さんに習っているだけで……」

「治ったときに分かるわよ。あんたなんか、その肌さえ治ったら岩田君に見向きもされなくなるわ」

思った以上に動揺した。この肌は治したい。岩田君のお母さんに肌にいい食事などを習って自分で作るようになって、ほんの少しだけど日々のかゆみの発作が減った。身体の芯から湧き上がるような痒みで叫びたくなるようなそんな時間が少しだけ減ってきた。もうそれだけでも自分にとっては革命的に楽で、これは本当に物心つく前から母と一緒に十五年以上も戦ってきた時間から少しずつ解放されていく喜びしかなかった。

でも、この人魚のようなウロコが落ちて行ったら、特別だった私は、ただの人になるの? そうしたら、確かに岩田君や岩田君のお母さんが一緒に戦ってくれている時間は終わるの?

その後どうやって、文句を言う女子達から解放されたかよく覚えていない。岩田君の隣の席に戻ることが怖かった。そのまま学校を飛び出し、がむしゃらに走った。行く場所は二つしかない。自分の家か、岩田君の家。気が付いた時には、岩田と書かれた表札の前で、息を切らしながらうずくまっていた。

「美月ちゃん? どうしたの?」

不意に声をかけられ、顔を上げると岩田君のお母さんが、不思議そうにこちらを見ていた。買い物をしてきたのだろう、両手に荷物を下げ、重そうに持ち直しながら、こちらに近づいてきた。美月ちゃん、と家族以外の人で言ってくれるのは、この人だけだった。不意に涙が盛り上がってきてしゃがんだまま顔を隠した。岩田君のお母さんが息をひそめて立ち止まった気配を感じて、慌てて袖口で涙をぬぐった。涙にぬれて、皮膚片がこびりついていた。

「あの、岩田君はどうして私のこと気にかけてくれるんでしょうか?」

「美月ちゃん、中に入ろうか。何時間そこでうずくまっていたの? 風邪ひくわよ。あと、先生に言って出てきたの? まずは学校に電話しよう」

ますます、涙が止まらなくなった。私の病気がよくなったら、こんな優しい声をかけてくれる人とのつながりも終わってしまうんだろうか。

治らない絶望も、治った喜びの先に来るかもしれない絶望も、ないまぜになっていた。

「落ち着いた?」

岩田君のお母さんは、私が家に行くとまず、スープを出してくれる。このスープが栄養をくれて肌を元気にしてくれるから、作って飲んでごらん、と一番最初に教えられたこと。自分でも作れるようになって、馴染んだ味のスープを飲むと少し気持ちが落ち着いた。時計を見ると十四時を回っていた。

「美月ちゃんは、裕也から里香ちゃんの話を聞いたことは、ある?」

私のしどろもどろの話を辛抱強く聞いた後で、岩田君のお母さんは、裕也がどういう気持ちで美月ちゃんと接しているかは、さすがに私もわからないけどね、と前置きをしてから、私の知らない里香、という女の子の名前を出してきた。私は首を左右に振った。

「里香ちゃんは、アトピーの子供の会で出会った同い年の子で、裕也とすごく気が合って仲が良くなったのね。裕也は五年生の時にはすっかり肌もきれいになったんだけど、その子はまだいい時と悪い時の差が激しくて、良くならない自分が嫌だったんだろうね、裕也を困らせるようなことを言うようになってね」

ある時、裕也は里香ちゃんにもっと頑張らないから治らないんだと言ってしまって、それきり、彼女はアトピーの子供の会には来なくなってしまったの。

「それっきりなの。里香ちゃんとはその後全く連絡がとれなくなってしまって、私も、里香ちゃんのお母さんに謝って、気にしないでくださいとは言われたけどそれ以上は何もできなくてね。裕也、後悔しているんじゃないかなって思う。だから、美月ちゃんにはよくなってほしいなっていう一心なんだと思う。ただ……」

もしも仮に治ったらどうなるか、それは私にもわからない、岩田君のお母さんはカップのお茶を飲みながら曖昧に笑った。

「だってね、私自身も十年先のことなんてわからないのよ。裕也が小学三年生であんなふうに肌のことで悩むとは思ってもいなかったし、治るとも思ってなかったし、里香ちゃんのことだって、美月ちゃんを家に連れてきたことだって全然想像できなかったんだから。私達ができるのは、ただ、目の前の今を精一杯に生きることだけなの」

そうやって頑張った先に美月ちゃんは肌がキレイになるかもしれないし、肌がキレイになったときに、もしかすると裕也にとってごく普通の友達になるかもしれない。でもね……、岩田君のお母さんが私を傷つけないように言葉を選んでゆっくり話してくれているのがよくわかった。精一杯生きること、という言葉に力がこもっていた。

「積み重ねてきた私達の関係はちゃんと残るし、その上で精一杯生きた先に未来ってあるんじゃないかな」

「でも、うちの母は……、お母さんは、私のために精一杯やってくれたけど、未来はなかったです。あんなに一生懸命私のことをやってくれたのに、死んじゃったもの」

「あなたが未来、なのよ。あなたがちゃんと生きているじゃない。かゆくても頑張って。それがあなたのお母さんの未来なのよ」

岩田君のお母さんの声がかすれていた。お母さんの気持ちは、お母さんにならないとわからないかもしれないわね、ポツリと言った言葉が耳の奥にコトリと落ちた。

私のこの人魚のようなウロコが落ちて、王子様と仲良く暮らす日を、お母さんは望んでいたのかな。たとえ、このままだったとしても、精一杯生きたらお母さんは喜んでくれるかな。

岩田君や岩田君のお母さんに会って、初めて、家族ではない人から親切にしてもらえる喜びに包まれた。それだけでも、お母さんはきっと喜んでくれているはずだ。もはや、自分は、絶望に打ちひしがれてはいない。

かつてのように、人魚に憧れる生活には戻りたくなかった。少しでもいいから、ちゃんとした人間として、精一杯前を向いて、生きたい。私のことを人間と認めてくれた岩田君や彼のお母さんがいてくれるから。

「ただいま」

岩田君の声が玄関から聞こえた。

(完)

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