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なぜ?を中心に生きることの功罪と、それをやめてみた結果

好奇心が強い方だからか、
「なぜ?」
と問うのが癖だった。

その功罪の話。

良い側面としては、
物事の筋道や道理を見通しやすくなることだ。

私は大学では法学部に所属していたが、
その際にもこの癖は有効に活用できていた。

法学的なロジックを捉える際に、
相手や自分、社会との関わりなどを踏まえて適切な解釈がしやすかった。

結論から理由までの流れは、
「なぜならば」
という関係性で持って証明されるからだ。

逆に、
悪い側面の話をすると、
「頑固」「理屈っぽい」
などが思い浮かぶかもしれない。

確かに私自身を考えても、
昔からそのようであったと思う。

でも最近
「なぜ?」を中心に据えることの本当の弊害を感じるようになってきた。

それは、
「WHY?中心主義」では、
自分の納得する結果がでないと
腹を立てたり、不満を表明したりすることだ。

その背景として、
「なぜ」は、必ず理由あるはずだと思い込むという特徴がある。

「なぜこんなに非難されなければいけないのか」
「なぜこんな歌が流行っているのか」
「なぜ私は仕事ができないのか」

上記は全て、
自分の納得のできる答えのみを探す
という
かなり窮屈な旅だ。

その結末はだいたい、
その場、その時にあった適当な答えを見繕って、
仮の納得感を得たりもする。
が、
それはまだ良いほうだ。

最も悪い結末では、
「納得のできないことはやらない」
となってしまうことだ。

そもそも、
たった一人の人間にどれだけの知識や知恵があるのか。

だから、
「なぜ」は諸刃の剣ゆえに、
適切な用法と容量を守らないといけない。

長くなってしまったが、
ベースとして「なぜ?」から始めるのをやめよう。
という話が本題。

私の場合はその代わり、
「どうやったら」から始めるようにした。

結果的に、
ストレスがかなり減った

実験中にわかったこととしては、
なぜと考えているうちは
行動につながりにくい
ということだ。

そして、
どうやったらと考えると
自分の中で想像できる答えが必ず一つは見つかるということだ。
意外にもこれがかなり重要な発見だった。

それらから考えられることとしては、
なぜは普遍的な正解を見つけるアプローチ
だが、
どうやっては自分の中の正解を見つけるアプローチなのかもしれない。

そういった意味では、
日常生活を送る上で、
なぜ?を前提に生きることは息苦しく窮屈になる原因ともなる。

そのため、
どのやったら?などの
「HOW中心主義」で日常を過ごすことで
健康で健やかな毎日を送りやすいと感じた。

(整体師でもない)一般人が生きている上で、
なんでこんなに肩こりが、、、(この原因は?)」
などと考えるのではなく、
「どうやったら肩こり治るかな」
と考えて軽くストレッチした方が普通に有益だからだ。

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