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ダンスってめっちゃアートだと思う。

僕が思うに、ダンスはアートだと思う。


アートの分野で代表的なもので言うと、『絵画』がある。アーティストの個人的な思いや価値観、メッセージが抽象的に表現されるものなので、伝わりづらく明確な価値基準がない。そのアート作品の評価を決めるのは、それを観る人次第。上手いか下手かはある程度まではみんな理解できても、一定のラインまでいくと分からなくなる。


この前、最近知り合ったアートディレクターさんの美術展示会に行ったのですが、展示されている絵画を見て

「この絵が何を意味しているのかが分からない。」

「この表現が何のメッセージを言っているのか分からない」

「この絵のどこが題名と関係してるか分からない」


僕は正直そんな思いを抱きました。



展示会には、展示されてる絵の作者さんもいて、いろいろ聞いてみました。

「すぐ分かってもらえなくてもしょうがない。頭の中を具体的に画にして、絶対に誰もが分かる様に表現してしまったら面白くない。感じ方は人それぞれだから面白い。」と。


展示会の主催者の方もそうおっしゃっていた。



なるほど、アートの作り手の意思には「すぐに理解されることは無い」という不確実性を引き受ける覚悟がある。もちろん、作品の価値がすぐに見いだされるのが望ましいけれども、理解されるのに時間がかかってもしょうがない、分からないなら分からないでもいいと。抽象度の高い内容を表現するアートはそういう前提のもと生み出されてるのか。

たしかにアートは評価されるのに時間がかかる。画家は死んでから有名になるのはよくある話。


となると、アートは値段がつけられているが『商品』ではないと考えられるんじゃないか。マーケティングどうこうではない、周りが求めてるものじゃなく、自分が純粋につくりたいものをつくるのがアート。

(ここで言う商品とは、「今、世の中はこれが好きで、これを求めてる。」「この客層をターゲットにして彼らに響くようなものをつくろう」などと考えてつくるものとする。)

『商品』は多くの人に購入、利用してもらえるようにある程度計算して世に出す。だからアートよりは価値が広く、早く伝わりやすい。





そこで、ダンスはアートと同じ構造をしてるのではないかという話をしたい。

ダンサーは、「なぜ自分がダンスするのか」「この動きがみんな好きだから、評価されるからこの動きを練習する」なんて考えてダンスしない。「これをやりたいからやる、これが好きだからこれをやる。」そういう純粋な欲望のもとダンスしている。(しかも、自分の身体の動き一つ一つに隠れたメッセージや意味なんて、ダンス見てる側に伝わらない。そもそも意味すら無く、何となくかっこいいから、エモいとかの理由でその動きをやってることも多い。)
そして、誰もが上手いか下手か分かるレベルの先には、どう上手いのか、どのくらい上手いのか分からない領域がある。それをダンスバトルやコンペティション等で勝敗やランキングを付けようにも、明確な価値判断基準がないのでジャッジの好みや価値観に左右される。(それにダンスは上手い・下手関係ない、楽しみ方が自由であることも大きな価値ですらある。)

あるジャッジから見れば「このバトルはこのダンサーが勝ち。」と思い、別のジャッジからすれば「いやいや、そのダンサーは負けだよ」となる。人によって価値の判断基準が違う。

スポーツだったら、球がゴールに達した数の総量や、いかに早くそのゴール地点にたどり着いたかで勝敗をはっきり定義できる。球技だったら、誰が見ても一点は一点だし、レースだったら一番目にゴールした奴が優勝。誰が見ても。




価値が具体的で分かりやすいのか、抽象的で分かりづらいのか。


ここが評価の時間軸を決める。


早く価値が評価されるのか、評価されるのに時間がかかるのか。


アートは表現される情報が抽象的なゆえ、価値が評価されるのに時間がかかる。


そんなアートとしての特徴をもつダンスの価値を今すぐ(あるいはここ数年で)どうすれば広く、みんなに分かりやすいように伝えられるか。



それは、アートの価値をすぐ分かってもらえようにどう伝えるか ということにもなるのか。






価値が認められるのに時間がかかるというのがダンスの本質的な特徴とみると、ダンスの価値が認められるのに時間がかかるというのは自然の摂理なのではないか。

生き物は必ず死ぬのと同じ。

自然の摂理に逆らえるのは神のみ。

だからなかなかストリートダンスの社会的価値が見いだされない現状があるのかと思う。

ダンスの価値を、今すぐに、ここ数年のうちに社会的に認められるようと頑張る行為は自然の摂理に逆らおうとする行為なため、必ず失敗するという運命しかないのではないか。



しかし、アートが世に出されてすぐ評価された例はある。

ウォーホルのポップアートです。↓

https://catch-a-wave.com/catch-a-blog/andywarhol/

ウォーホルは大衆文化を的確に捉え、それを絵で表現しました。作品がつくられた当時の有名女優(マリリン・モンロー)やコミックスなど、みんなが好きなスープ缶やマイケル・ジャクソン等の大衆に共通するイメージが多く作品内に用いられ、ポップアートはポピュラーカルチャーを積極的に取り込んだアートと言える。大衆が誰でも知っているイメージやモチーフを使うため、万人にも分かりやすいインパクトがある。

大衆が無意識に感じていることを捉えて顕在化して行動を促そうとする発信は、まさに広告的と言えるでしょう。




ストリートダンスが生まれてから約50年経った今、そろそろさすがに認められてもいいんじゃねえかと言うところで、今いろんな動きが活発になってきたけれども、
このウォーホルの例のように広告とアートの融合を手本に、広告とダンスの融合をさせたら、ダンスの社会的価値はすぐ大きくなるんじゃないか。


これは、ダンサーをCMや雑誌に起用しろとかそういう話では無くて、広告的要素をダンス(あるいはダンス活動)に組み込む必要があるのではないかということ。


情報を具体的に分かりやすく伝えるというのが広告的要素の一つだが、ダンスを踊ってる最中に「この動きは○○を表しています。~だからこの動きをします」なんて解説入れたら邪魔でしょうがないし、やっぱりつまんない。説明するというのはダンスのアートとしての価値を壊すことになる。それでいいのかという問題もある。

しかし何よりダンスの価値をより広く伝えるには、ダンスの価値を言葉で伝えるしかない。ダンスは非言語だから。

ダンスのアートとしての大切な要素を壊さず、具体的に分かりやすい形で価値を伝えられる(広告的要素を加える)にはどうすれば良いか。



それは時代の空気感を捉えるということか。

社会の特徴を捉え、それをダンスを利用して表現する。例えば、FISHBOYさんのダンスで選挙投票を呼びかける動画はまさにそれだと思う。(2020東京都知事選)↓

https://www.youtube.com/watch?v=n9jy6Rpqyd4

「若者の投票率を上げれば、その分偉い人が若者の意見を聞くようになる。
応援していた候補は受からないかもしれない。
だけどもその一票は投票率というもう一つの意味を生んでいる。
皆、投票に行こう。」

そんな思いを、ダンサーとして、曲と踊りの動画で表現したものがこれ。
そしてそんなメッセージを、より自分ごと化してもらえるような言葉も動画に組み込まれている。

要約すると、「国のルールは頭のいい人がつくっている。だからこれからの時代を担う若者が賢くなって、特権階級の人間がやってることの構造を理解しろ。彼らに影響を与えられるようになって、彼らの思い通りの世ではなく自分らが生きやすい世の中に変えなきゃならない。」

そういうメッセージも動画で言葉として伝えられている。

「若者の投票率が低い」という現代社会の様子を捉える。そして社会に見せる。

時代の空気感をパッケージしたものは何年経っても、その当時の時代の特徴を想起させる。(あのときは若者の投票率が低くていろんな人が頑張ってたよな~みたいな)


そして流行りの曲、みんなが知ってる曲で踊りまくるというのも策ではあるのかと思うが、そのコンテンツが永続的に見られるかというはその曲次第な気がする。これからも聞かれ続ける曲なら永く見られるか。





きちんと言葉にして価値(あるいは伝えたいメッセージ)を伝える。
このダンスの意味はなんなのか。ダンスやってる理由は何なのか、丁寧に言葉にすることが大事。


ダンスを通してこういう良い経験、学びがありますってのを積極的に言うことが重要かな。(それダンスじゃなくても良いよねって思われないようなこと)


まあ、ストリートダンスの場合、ストリート文化のクリーンさもないといけないと思うけど。。(ちょい悪、もしくはチャラいというイメージがどう影響してくるか。払拭するべきか。)ストリート感無ければ良いのかな。でもストリート文化の良いところは消さない方が良いかも。

僕は、ダンサーはチャラいイメージがあるってダンサーじゃない人に何度もいろんな人に言われる。


めちゃめちゃ長ったらしく書いてしまったが、最後にこれだけは外せないなって思うことがあるので書いておく。


でもやっぱり「ダンスかっこいい!!すげえ!たのしいぜ!!」って言う感情が一番正直なところよな。

僕は大学の時にダンスを始めて現在ダンス歴4年になろうとしてるが、思い出してみると、小学生の頃、たった1、2ヶ月だがものすごくダンスに熱中していた時があった。


僕は今は普通だけど、昔は嵐の大ファンだった。生まれて初めて買ったCDは嵐デビュー10周年記念のアルバムだった。(親に買ってもらったが。)初めはシンプルに曲が好きで聞いてただけだったが、ある時を境に嵐のダンスに熱中する。

タモリがMCをやってる『ミュージックステーション』という番組が今でもやっているが、僕が小学校5,6年生の時に、この番組内で嵐が当時の新曲『Crazy Moon~キミ・ハ・ムテキ~』を踊っていた。


僕はそのダンスのかっこよさに心が震えたのを鮮明に覚えてる。今までにそんなカッコイイものを見てこなかったのかな。たまたま家のテレビでそれを録画していたので、何度も見返していた。


気付いたら身体が勝手に動いていた。


学校から帰ったらテレビの前で、嵐のダンスをスロー再生して必死に振り付けを覚える日々。


嵐はカメラの前を向いて踊ってるから、こっちから見たら振り付けが左右逆なんだよな。こっちから見えてる嵐の動きを、頭の中で左右反転して踊らなきゃならない大変さ。

そしてカメラワークがちょこちょこ変わるから、身体の一部の動きが突然見えなくなることもある。そしたらyoutubeでMステ以外の音楽番組で同じ曲で踊ってる動画をあさって、Mステでは見えなかった身体の部分の動きを見て覚える。それの繰り返し。


そんなこんなで1,2ヶ月掛けて『Crazy Moon~キミ・ハ・ムテキ~』の振り付けを覚えた。10年以上も前に覚えた振り付けで、復習など一度もしてないが今でもこの振りは踊れる。時間を掛けて覚えたことは忘れにくい。


それ以来大学入るまでダンスはやってこなかったが、そのときの嵐のダンスをコピーした熱量は今でも忘れられないものがある。


「ただ、今楽しい」「とにかくこれが好き、好きすぎる」


理屈とか説明とかよりも、こっちの方がリアルで信じられる。共感しやすい。


だからダンスだけに限らないと思うけど、価値がみんなに分かるように伝えなくちゃならないって、ホント面倒くさいんだよ。


とりあえず熱狂できるぜっていう。それが人生における、何物にも代えがたい経験、学びだと思うぜ。




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