ダンスをするカテイ

引退したサークルのダンスバトルのジャッジをした。数ヶ月前に依頼された時はどんな基準で、どんなことを言おうか考えていたのだが、結局自分の感性と第一感に頼って判断した。日に日に精神が死んでいっているので、モチベーション自体は低い状態で望んでいたのも、考えに影響したと思う。

あまり尖ったことを言うべきでは無いが、あえて思ったことは素直に書いてみる。
まず自分のジャッジムーブは酷いものだった。最近、ダンスできてない、というより解放される感情は怒りと虚無のみで、踊っていて非常に辛い。とはいえ、どちらにせよ僕のレベルというものはたかがしれているし、未だに及第点の壁すら見えていない。

そんな下手な僕からしても、バトルのレベルは低かった。ただし、低いことは悪ではなく、むしろ途中経過でしかないので、下手であることがダンスの根本的な価値を下げているとは考えられない。つまり、勝ち負けを判断する側は、身体表現としてのダンス以外の事をより集中して見る必要があり、考え続けなければならなかった。そして、敢えて言うと、あれほど、勝ち負けに意味の無いバトルはないのだと思う。一瞬の一喜一憂はあれど、それ以上はスマートではないと思う。

終わって思ったことは、正直特にない。初心者ってこうゆう動きしがちだよな、でも、たまーに流れてくるソウルトレインの動画の中の人も似たような動かしてるな(身体能力に決定的なさはあるが)とか、この人はどんなダンサーが好きなんだろうかとか、どの音を聞いて身体のどの辺を意識してるんだろうなとか、思うくらいで、とくべつ面白いことは無い。

ダンス以外で感じたことの方が大きい。
よく伝わってきたのは、サークルの傾向である。よく言えば素直、あえて言うなら、浅く客観視できているのか不安になる、ということである。素直にダンスに興味を持ち、素直に音を楽しむ、僕にはできない素晴らしいことだと思う。その調子で深くまで行ってくれるとなんか嬉しい気分になる。

100人くらいいたので、色んなダンス見れたかなと振り返ると、実はそうでも無い気がする。まあ、一人一人違いはもちろんあるのだが、カテゴライズの可否で考えると、100通りの分類ができるほどでもない。
非体系化されてる言語だから、自由度は比較的高いものの、あるあるを感じた。
ただ、そこが興味深さだなと、再認識した。自分もダンス歴は4年目にはいったが、理論は未だにないし、学問ほど上手く教えられたことも教えられることもできない。自分で感じたことを信じて、動いて、まわりとコミュニケーションする。積極的に伝えようとすることもあれば、自分の中だけで完結させることもある。ひたすらに何かをブツブツ言っていて、次第にノイズが除去されていき、クリアになる、そんなカテイを楽しんでいる。

技術論的なことはあの短い場では喋らなかったけど、簡潔に言えば、歩くことを分解してみよ、と言った具合のことがテーマになる。
1歩足を前に出し進むことが歩くという動作なのだが、進む状況を実際に作り出しているのは後ろ足で地面を押していることである。これが、ダンス(森羅万象)において、大事な事だと思う。表現したいこと、動きたいと思う体があったら、その逆を考え、そこから意識を流し始めるのが大事なんだと思う。もちろん、フルカウルの状態も。

ダンスの魅力について、もっと話したかった。僕は動くことは苦手でも、考えることは苦手ではないです。なので、ダンスの魅力は、身体的なこと以外で感じることが多いんです。

一人一人が善悪を決める、決まる状況に身を置く体験はなかなかできない事だと思う。権威主義の外側の世界だと思う。傍観者とプレイヤーの比率が他ジャンルと比べ、プレイヤーが圧倒的に多い。などです。
自由に解釈していい、という制約も好きです。

僕もまだ踊りたいし、また踊りたい。

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