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一年をとうに過ぎた島ぐらし
去年の冬はこんなに寒かったっけ?
と、思う最近。
だいぶとnote から離れてしまっていた。
今年はいろんなことがあった。
前の記事で書いた、大好きな仲良しの姉は夏の暑い時期に逝ってしまった。
「出来るだけ自分で決めて、出来るだけ家族に迷惑をかけないように」
なんて、自身のブログに書いていたことがあったのだが、
それを貫くかのように、
私が夏の休暇を取って関西の自宅に帰っている時だった。
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春頃、私はずっと浜で姉の回復を祈り続けていた。
「目を覚まして話が出来るようになりますように」
でも、それは私のエゴなのではと気づいた。
そう、私が話をしたいだけ。きっと。
姉が大きな病院から緩和ケア病院に移ってからの面会で、
もう見守っていくだけしかないのか・・と思いながらも
抵抗するように私は、浮腫んで尖足になってしまった姉の足を一生懸命マッサージしていた。
「目が覚めた時、これじゃ立てないやん」
そして、ようやく「姉は自分の人生を今も謳歌しながら終焉を迎えようとしている」ことを受け入れた。
それからは、浜での祈りは
「痛くなく苦しくなく、ゆりかごに揺られているように毎日が過ごせますように」
に変わっていった。
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姉の納骨が終わり、感じたことは、
なんとも言えない虚無感だった。
葬儀の時より、四十九日を迎えた時より、
納骨を終えた時の方が正直きつかった。
そして年末を迎えた。
私は来年、また大きく動くことにした。
何かに(たぶん姉)に背中を押されているように動くことになった。
自分自身とちゃんと繋がることで、
亡き人にももっと繋がれる気がする。
その時受け取るモノを、直感とするのか、声とするのか、自分の思考とするのか、
そんなことはどうでもいい。
自分の真ん中を生きるしかないんだ。