島ぐらし21日目〜言葉にのせる
昨日の記事で、
「字面だけの言葉は時に大切で心に残るものだけど、音にして直接伝える言葉には、周りに他の音や香りや目に映るものがあって、それがいい塩梅で、強くなりがちな思いや主張を柔らかにしてくれたりする。」
と書いてみたが、
これだけを読むと、音のある言葉の方がいいと言っているように思える。
文字として伝える言葉にしても、音として伝える言葉にも共通して思うことは、その言葉にどう「うむい」をのせるかが大切だと思っている。
・・うむいとは想いのこと・・
ある女性が、それまでの人生を話してくれていた。
その女性は言いたいことが上手く伝わらない、自分のやり方を柔軟に揺るがすことが出来ない・・そんなこともあってか、周りは言葉がきつくなり音量も大きくなりがち。
その女性の言動の全てに、心の端っこが壊れ始めた感じが伝わってきた。
他の方に、彼女は時々そんなことがある。・・って、聞いたけど、ん?なら、なんで普段から周りは気を配らないのかな?
聞いてしまった言葉は、強烈であればあるほどその人の人生の終わりまで消えないことがある。
と、そんなことを思いながら、自宅でたこ焼きを焼いていた時の事を思い出して深く反省する。
私は家族に対して、ある程度の我慢が過ぎてプチッとなった時、強い言葉と音量をぶつけてしまうことがある。
子育て終盤になった今、子ども達に本当に申し訳なかったと反省する。
一番記憶に新しいのが、来沖する1ヶ月ほど前に(最近過ぎて更に反省)家で夕食にたこ焼きを焼いていた時のこと。
前々から私はよく家族に言っていた。
「私はご飯を作る係でも掃除をする係でもない。今まで、家族の都合上その役割を担っていただけ。皆んなで分担をして。」
お好み焼きは自分なりのやり方で作るが、たこ焼きはたこ焼きの元の粉を使った方が美味しく焼ける。要するにへたくそ。
でもその日は粉がなかった。
仕方なく検索をして、小麦粉を使ってたこ焼きを焼いたのだが、なんだかちょっともったりとしていた。
その日は心が元々モヤモヤとしていたことがあった。
それは旦那に対して、「なんでいつも夕飯時に二階から降りてきて、食べたら片付けもせずに自分の部屋に戻るんや?分担って言ってるやろ?」ということだった。
そんな時の、家族からの‘もったり’の指摘に、我慢爆発!
結構な音量で怒鳴りまくった。
旦那は「なら、悪かった」 なら(そうなら)ってなんや?謝る気ないやろ。
火に油が注がれた。
そしていつも心優しい長男が涙目になりながら「そんなつもりで言ったんじゃない」って謝っていた。
長男はこれからたこ焼きを食べる度に、私のなんのうむいも込められていない強い言葉を思い出すんじゃないか・・
相手に何かを伝えるって難しい。でも深く考え過ぎて、伝えることを躊躇するのも違う。
言葉になんのうむいもなく、ただ強いエネルギーだけが乗っかりそうになったら、一旦収めてみる・・
今の私にやってみれそうなことは、その位かな。
今日も浜に行ってみた。
モンパノキもクサトベラもスーキ(潮木)として沖縄の浜ではよく見かけるお馴染みの木。
青い空と海に、この木達の緑はとてもよく映える。。