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【完全版】毒親に毒親と言われた話

【いくつになっても中二病の私が、子供たちに仮の名をつけました!】
息子……ミスティ
娘……クレア

※今回は登場人物の関係が難しいので、名前を考えました。特に由来はありません。彼らのハンドルネームとも全然違います。

 全部で20000字を超えている。
 一記事としては結構な大作になってしまった。
 どうしようかな、これ……。こんなの世に出していいものか。
 時々私小説を書いている私は、常日頃からあまり抵抗なく自分のことを語りまくっているけれど、今回はちょっと投稿を躊躇うような内容である。
 小説ではないしね、どうなんだろう。

 おいおい、『文学に配慮なんていらーーーーーーーーん!!!』と強がったばっかりで、こんな弱気なのってどうよ!? 

 そんなことを考えていたある日、みくまゆたんさんのところで、自分語りを募集しているのを発見!

 これも何かの縁だわ、と投稿を決意した次第。

※みなさんも『自分語りnote』書いてみるのはいかがですか!
 詳しくは引用したみくまゆたんさんの記事を参照のこと~!


目が覚めたのは三年前

 私の母は毒親である。
 私が自分の置かれている状況に気付いたのは、今からたった三年ほど前のことだった。私はもう、四十代も後半である。

 それまで、毒親という言葉を知っていても、自分の親がそうだと思ったことはなかった。
 むしろ毒親という言葉が嫌いだった。
 ここまで育てて貰っておきながら、甘えてんじゃねーよ、と思っていた。
 どうせ何不自由なく育てられたんだろ! というのが妬みということは自覚している。申し訳ない。
 当時の傲慢な私を今は恥ずかしく思う。
 世界中の毒親持ちさんには、本当に申し訳ない。
 同じ理由で、アダルトチルドレンという言葉も嫌いだった。
 言い訳をして逃げてるだけの、大人になっても甘え腐ったガキ。
 ……その価値観が自分のものだと信じていた。
 確かに芽生えていた「自分ももしかしたらそうなのではないか、親の影響で人生が辛い部分もあるのではないか」という小さな疑念を潰すために、私は無意識にでも心の中で苦しんでいる彼らを侮蔑していた。
 そうしないと、自分の足元が崩れそうで不安だった。
 最低だよ、本当に。
 だから許してくれとは言わないが、あの頃は母に洗脳されていた。
 私は母を信仰しているようなところがあったから、今でもなかなか洗脳が解けない。
 今でもいろんな場面で、「これは誰の価値観?」「私はどうしたいの?」と自分に問いかけてしまう。
 とにかく私は呆れるほど鈍くて、真実に気付くのがとてもとても、遅かった。

 私は母からの愛情を感じたことはない。
 実際に本人がどう思っていたのかは、訊けないまま終わりそうだ。

 小さな頃の写真には、死んだ目をした私が写っている。
 イラストで言うなら、ハイライトを入れ忘れたような目だ。
 何の期待もなく、喜びもなく、感情のない人形の目。
 旅行先、遊園地、いろいろなところに連れて行って貰った。
 けれど、笑っている写真はない。
 親が「こっち向いて!」と言ったから、顔を向けた。
 ただそれだけを写した紙が、実家にはたくさんあった。

 それでも、もしかしたら愛されていたのだろうか。
 私が覚えていないだけで、大好きだよ、大切だよって伝えてくれたことはあったのかな。
 夜が怖くて泣いてる時には「大丈夫だよ、ママがついているからね」って抱きしめてくれたのかな。
 そんな時代はあったのかな。

 忘れない記憶。幼稚園の頃に見た夢。
 私は細い吊り橋の真ん中に置き去りにされていた。
 すぐ落ちてしまいそうな、ほとんど綱渡りみたいな吊り橋だ。
 向こう側が見えないほど遠く長い。
 闇だ。月明かりだけが頼りだった。
 風の吹き抜ける森の音、生き物たちのざわめき、湿り気のある空気。
 母は私を置いてどんどん先に行ってしまう。振り返ることもない。
 私は、「待って!」と呼びかけたが、母は絶対に戻ってこないとわかっていた。
 立ち上がり、恐怖に震える足で追いかけて……足を滑らせた。
 闇の底に落ちていく。心臓が冷たくなる。見捨てられた絶望。
 墜落の衝撃を感じる前に、目が覚めた。
 私は泣きながら、側に寝ている母に声をかけた。

 あの時、母は何て言ったのだろう。

 母は子供が苦手だ。
「当時は結婚して子供を産むのは当たり前だったから、お見合いもしたし、子供も産んだ」
 でも本当は望んでいなかったのに、という口ぶりである。
 時代の犠牲になったということなのだろうか。
 義務は果たした、ということらしい。
 私が産まれた頃はもう結婚にこだわる時代じゃなかったので、当時の常識や周囲からの圧については想像するしかない。

 だから、母が愛してくれなかったのは時代のせいだと考えていた。
 今とは育児の常識が違うから。
 抱きしめてもらえなくても、褒めて貰えなくても。
 叩かれても、子供にはどうしようもないことで脅迫されても。
 昔の子供は叩かれて育つものだった。母だってそうやって育ったはず。
 だから、母は間違っていない、きっと古い価値観ではそれが正しかったんだから。
 十代の頃、私は母との関係を、そう割り切ってしまおうと思った。
 外の世界との関わりの中で芽生え始めた疑問を飲み込もうと決めた。
 母を許す、それが大人になることだと思っていた。


仲良し母娘

 もう少し後の時代。

 私たちは、よその母子よりずっと仲良しだと自慢に思っていた。
 出かける時はいつも一緒にいた。
 母が友人知人に会う時も、どこへでも。職場にも連れて行かれた。
 そして、私は隣で黙って終わるのを待っている。
 ずっと座って待っている。何時間でも。
 本を読んだり、絵を描いたり、大人しくしている。
「騒がずに、じっとしていることができて、偉いね」
 気を遣って褒めてくれる人もいた。
 自分の躾がうまくいっていると思うのか、母は満足しているようだった。
  
 母はいつも帰宅途中でふらっとパチンコ屋さんの駐車場に入っていく。
 待っててと言われ、車の中で何時間も待っている。
 スマホどころかガラケーだってまだない時代だ。
 本を持っている時はまだいいけど、何もない時はずっとノートに絵を描いていた。詩を書いたこともあった。
 太陽が傾いて辺りが暗くなってきても、母は帰ってこない。
 心細くなっても、暗くて本が読めなくなっても、眠くなっても。
 知らないおじさんに車の中を覗かれることもある。
「どうしたの? お父さんとお母さんは?」
 本当に心配してくれていたのかも知れないけど、怖かった。
 ドアは開けなかったが、でもドア一枚で安全が保証されるわけではない。その頃にはもう性犯罪の知識くらいはあったから、不安だった。

 母は言った。
「絶対にドアを開けたらダメ。油断したら襲われるかもしれないから、寝るんじゃないよ」
 私はそれがおかしいことだとは思わなかった。
 もう小さい子ではないから、置いておかれても死ぬことはないから。
 暖房も冷房もつけられない。
 灼熱の夏も、凍えそうな冬も。
 怪我をしなければ、死ななければ、何をしても虐待じゃない。


学歴なんて必要ない、女に学問はいらない

 アンケートの尊敬する女性という欄には、いつも「母」と書いた。
 頼りない父や癖の強い親戚とうまくやっていて。家計のために仕事を始めて、苦手なことも頑張っている母のことを尊敬していた。

 好きだったのだ、母のことが。
 今はこうして『毒親』なんて書いているけれど、好きだったんだよ。
 
 母はいつも私の夢をへし折ろうとするが、大人になるまで育ててくれたと思えば、簡単には逆らえない。
 だって、「子は親に従うもの」「誰のおかげで生きていけると思ってるの?」「働かざる者食うべからず」と、母はいつもそう言う。
 母に対する不満は、心の中で思うだけでも許されぬ罪なのだ。

 子供は働くべきだと、家事を任されていた。
 お手伝いではない。主婦業をしろということである。
 勉強なんてしなくてもいい。
 そんな時間があるのなら、家のことをしなさい。
 高校なんて必要ない。家計が助かるし、辞めて働いたら?
「女に学問はいらない」という祖父の影響で、進学させてもらえなかった母。
 兄や姉を差し置いて進学することは、外聞が悪くてできなかったそうだ。
 本人は否定しているけれど、学歴コンプレックスがあるように思う。
 会社などでも「高校出てるくせにこんなこともできないの?」と思うらしい。「だから学歴なんかなんの役にも立たない」と言う。

 勿体ないと思っているのか、公立高校の学費も度々滞っていた。
 それでも昼食代として一日二百円貰っていた。
 これだと一番安いあんパンと牛乳しか買えないかった。
 いつもあんパンを食べていることに気付いたクラスメイトが、昼食の度に囃し立てるようになる。
 私は牛乳をやめることにして、少し高いパンを買った。
 百二十円のパンである。うわぁ、高級パンだね!
 ……いや、これ平成の話よ?
 当時世の中はバブル景気だったのに、うちには何の恩恵もなかった。

 そして残ったお金を貯金した。
 当時私はお小遣いを貰っていなかった。
 高校生にもなれば、人づきあいにもお金がかかる。
 特別な贅沢をしなくても、友達の家にお邪魔する時には自分たちが食べるお菓子やジュースくらいは持って行くだろう。
 だから、お昼ご飯を食べない日もあった。

 母が仕事から帰って来た時には、食事ができているように。
 冬は気を利かせて、家の前の除雪も済ませておくように。
 できていないと文句を言われる。
 会社に持って行くお弁当作ってと言われて作ると、おかずが気に入らなかったと言って怒鳴る。
 他の家では大人がやっているようなことを、どうして私だけがやらなくてはいけないの。
 母は言う。
「私は外で働いているんだから、あんたが家のことをしなさい」
 主婦が、夫からモラハラに遭うのと変わらない。
「学校に通わせてやってるんだから、家事をするのはあたりまえ」


あの時、「死ね」と思ったくせに

 私には二人の子供がいる。二人とも成人済みだ。
 子供が小さな頃に離婚したので、それからは母子家庭で育てた。
 元夫や義両親は子供たちを大切にしてくれるので、養育費が途絶えても、今に至るまで交流を制限したことはない。
 もう子供たちが大きいので私はほとんど関与していないが、子供たちは年に一度くらいの交流があるようだ。

 私がミスティを妊娠した時、意外にも母は産むことを反対しなかった。
 母は私が何かをすることを嫌がるから、きっと反対すると思っていたのに。
 しかし、闇ルートで流通している堕胎薬を食事に混ぜるとか、それでもダメなら階段から突き落とすとか計画していたらしい。
 大丈夫、「何時代!? 闇ルートとかヤバいやつじゃん、シャブ的な何か? 怖!!」と私も思ったから。
 作り話みたいだが、そういうことを真剣にやろうとするのが母である。

 世の中には、娘の妊娠を喜ばない母親がいるらしい。
 大奥の陰謀みたいなことを言う母を、妹は諭してくれたそうだ。
 妹がいなかったら、私と上の子は母体ごと死んでいたかもしれない。
 もし胎児だけ死んだとしても、やっぱり私も死んだだろう。

 今堕胎しても、次の機会がある。
 そう思うひとがいるかもしれない。
 もっと落ち着いて、みんなが望む時に子供を作ればいいじゃない。
 
 違うのよ。この子はこの世にたったひとりなの。
 この命を失ったら、もう二度とこの子には会えない。
 特別な子供なんだ。私にとって、念願の。
 この子のために、私は、この世で一番大切なものを捨てたの。

 母が何故「下の娘は当然同意してくれるだろう」と思ったのかはわからない。少なくとも流産させることが正しいと思っていたから相談したのだろう。
 妹はこう言ったそうだ。
「バカなこと言ってないで産ませてあげなよ。私はこの先子供を産まないかもしれないから、たったひとりの孫になるかもよ?」

 私の母は、孫に、私の息子に、死ぬことを願ったんだよ。
 自分の手を汚そうとするほど、殺したかったんだ。
 手のひら返して優しいおばあちゃんのふりをしても、私は忘れていない。
 母は忘れているのかな。いいおばあちゃんのつもりでいるみたいだけど。


ありふれた姓の、普通の家で


 私はずっと子供が欲しかった。
 妊娠した時は本当に嬉しかった。
 自分が不妊かもしれないと思い詰めていたから、奇跡だと思った。
 妊娠検査薬が陽性になった時から、胎児に名前をつけて話しかけていた。
 
 母との間は険悪で、安定期に入っても問題は続いた。
 一連の状況を見ていた夫は、私を実家に連れ帰ることにした。

 私の実家の姓は少し珍しい。昔からそれが嫌だった。
 自分の姓名が嫌いなひとは、実家と折り合いが悪いという。
 でも、これからは、新しい姓で生きていけるんだ。
 憧れていた、どこにでもある、ありふれた姓。
 もう私だけが背負わなくていい、それがとても嬉しかった。

 本音としては、義両親と暮らすのは気が進まなかった。
 やっぱり同居というのは大変だと聞くし、母によると私は気が利かなくて不器用で愛想のない、できそこないの嫁らしいから。
 受け入れてもらえるのか不安だった。
 でも、自分たちを守るためには、もう飛び込んでいくしかない。
 荷物も特になく、貴重品だけを持って嫁いだ。
 こう書くと夜逃げみたい。
 妊娠中ということで、休憩しながら車で八時間。
 夜に到着して、義両親に挨拶して……。
 初日はバタバタしていてすぐ寝てしまった。
 二階のドアを開けて気付いた。階段に頑丈な手すりがつけられている。
 前回来た時に、「うちの階段は傾斜が急だから、気をつけて」と心配してくれていたのを思いだした。
 手先の器用な義父が作っておいてくれたのだろう。

 居間のドアを開けると、そこには朝があった。
 対面にあるテレビでは、NHKのローカルニュースがついている。
 そんな『普通の朝』に衝撃を受けた。
 テレビから流れるアナウンサーの声。
 義父がひげを剃る電気カミソリの音。
 義母と会話をしている夫。
 テーブルには湯気の立った朝食が用意されていた。
「おはようございます」
 なんだか夢心地のまま挨拶をすると、私に気付いた義父も義母も夫も、「おはよう」と笑顔を返してくれた。

 こんな、ドラマの中でしか見たことのない世界が、本当にあるんだ。
 テーブルに並んだ、焼き魚、おひたし、昨日の煮物。
 「今日からかなでちゃんの席はここね。お茶碗はこれね」
 決まった場所、決まった食器。
 私の居場所。
 ここにいてもいいのか。私のような人間を受け入れてくれるのか。
 信じられない思いだったことを覚えている。
 
 夕食の時も「妊娠中はカルシウムたくさんとらないとね」と、私の皿にししゃもを多くのせてくれた。
 内陸で食べるカペリン(カラフトシシャモ)とは違う、日本固有種のししゃもである。流通が少なく、道内でも産地以外では手に入らない高級魚だ。
 さすがは海のある街。
 知り合いの漁師さんからいただいて、この家の庭で干したものだという。
 へなへなしていないカリッとした身、味が濃い。
 確かにカペリンとは違う魚だ。
(やたらカリカリに焼けているのは、義母が魚を焼くの苦手で焼きすぎるかららしい)
 その翌日から毎日私だけ特別待遇で焼いてくれるのは困ったけれど、でも、この家のひとたちは、こうして子供の存在を喜んでくれてる。
 それだけで、ここに来て良かったと思った。


優しい家族たち

 そして数年経って二人目の子供、クレアが産まれた。

 ミスティの時は里帰り出産をすることになった。
 義両親と関係良好とはいえ、まだつき合いが浅い。
 気を遣わないで済むから、という理由で実家に戻った。
 出産は嫁の実家で面倒をみるものという先入観があったし、それを否定するだけの理由もなかった。

 だけど、酷かった。地獄のような日々だった。
 夜、ミスティが泣いたら「うるさい、泣かすな!」と怒鳴られる。
「こっちは朝から仕事なのよ! 早く静かにさせなさい!」
「何モタモタしてんの? そんなんじゃ親になんてなれないわよ」
 私も必死にやっている。
 二時間おきのお世話。
 産後はずっと体調が悪かった。
 お世話の合間にうとうと眠り、必ず酷い悪夢を見る。
 出血が多かったせいか、血圧が下がると死んだようになってしまい、目が覚めない。
 私は産院のベッドでも白い顔をして動かなかったらしく、「死んじゃったかもって思った……!」と隣のベッドの新米ママさんをわんわん泣かせた。
 結局母はミスティを抱っこしてくれるわけでもなく、沐浴を手伝ってくれることもなく、夜泣き対応をしてくれることもなく、ただ文句を言うだけだった。
 もう、今すぐ婚家に帰りたい……。

 だからクレアの時は実家に帰らなかった。
 義母は、「退院してしばらくはあかちゃんのことだけしていたらいいからね」と言ってくれた。
 二世帯住宅ではないし、夜泣きもはっきり聞こえたと思う。
 毎晩うるさかっただろう。
 でも一度も苦情を言われたことはない。
 私があまり眠れてないと思えば「クレアを見ていてあげるから、少し寝なさい」と言ってくれる。ミスティと二人で遊ぶ時間も作ってくれる。
 クレアが泣いたら抱っこしてあやしてくれる。
 義父も一緒にクレアを見ていてくれる。
 時には義姉が姪と甥を連れて来てくれて、ふたりといっぱい遊んでくれる。
 夫も子供好きなひとで、深夜に起きてミルクを作ったり、子供をあやしてくれた。
 後に離婚することになったけれど、今でも嫌いになった人はひとりもいない。本当にあったかい家族だった。
 私が『普通』の家庭で過ごせたのは、あれが最初で最後かな。
 本当に得がたい尊い時間だったし、感謝している。

 離婚した後、私は実家には帰らず、それまで住んでいた家に残った。
 この街に来て、はじめて自分の居場所を見つけた気がしていたから。
 母にはこれが面白くなかったようだ。



私が幸せだった頃

 養育費は最初からあてにしていない。私は自分の力で子供たちを育てる。
 仕事を増やした。掛け持ちもした。
 仕事だけじゃない。子供たちとたくさん遊んだ。保育園では役員もした。
 
 結婚してから創作活動をさせてもらえなかった。パソコンの使用を禁じられていた。いままでできなかったことをやろう、なんでもやろう。
 
 貪欲に頑張った。
 楽しかった。幸せだった。生きてるって感じがした。
 いつも子供たちと笑っていた。
 体が辛くても、子供たちが笑ってくれるなら平気だった。

 恋愛もした。友達と遊んだ。運動を始めた。
 絵を描いてイラスト展を開いた。異業種交流会に参加した。
 周辺100km圏内で行われる面白そうなイベントには子供と参加。
 三人分の浴衣を縫って、お祭りや花火大会にも行った。

 その朝は早起きしてベーグルサンドを作った。
 発酵させた生地を茹でて、オーブンで焼く。
 レタスと、生ハムやスモークサーモンとチーズを挟む。
 ピクニックらしい籐の籠に入れて上から布をかぶせる。
 週末はそうして、遠くの公園に足を伸ばす。
 あの日、嬉しそうにベーグルサンドを食べる子供たちを見て、「また作るからね」と言った。
 子供たちと笑っていられる毎日を、ずっと続けられると思っていたのに。


それは絶望だったんだ

 子供たちにしてあげたいことはたくさんあった。
 私の与えられる全てをあげたかった。
 努力さえすれば、それは叶うはずだった。
 そうでしょう? 頑張れば報われるんでしょう?
 ありふれた幸せの中を、私たちも歩いて行けるはずだった。

 でも、できなかった。

 頑張ったら報われるなんて、本当にそうだったら誰も苦労しない。
 もちろんそんなことは知っている。

 元々それほど丈夫な体質ではない。精神的にも強くない。
 だけどこれからは自分だけで、子供たちを守っていかなくちゃ。
 シングルマザーなのだから、誰に指差されることのないように、立派に育てていかなくちゃ。
 
 子供の頃の私はいろんなことを諦めなくてはいけなかった。
 だから、子供に不自由な思いはさせたくない。
 二人が望むなら、有名塾にだって、私立の学校にだって行かせてあげる。

 ふりかかる全てを引き受け、そしてこなした。
 全部私がやらないと。だって私は母親なんだから。
 頑張ろう。もっと。
 私は、もっとできるはず。

 あの頃の私は常軌を逸していた。軽躁状態だったのだろうと後でわかる。
 でも何も知らなかった私は、これが本来の能力だと思っていた。

 そして、私は壊れてしまった。

 いつも体調が悪い。度々、謎の発熱がある。
 眩暈で起き上がれない。
 天井がぐるぐると回り、酔って吐き気がする。
 最初に体のほうが音を上げた。

 しばらく落ち着いていた眼科疾患が再発した。
 眼底出血に視界が遮られ、片目が見えない。そして酷い飛蚊症。
 目の病気は精神的に堪える。見えなくてイライラするし、失明するかもと言われ不安になる。原因不明の病気で、治し方もわからない。
 大学病院でたくさん検査をした。研究名目で、特殊な検査までしてくれたけれど、何もわからなかった。

 でも私は運命なんかに負けたくなかった。
 だから、何も妥協せずに進むことにした。

 仕事が終わり、子供たちを迎えに行き、そして家に帰り着く。
 私は玄関を入ったところで崩れ落ちる。
 もう少し、と思うのに、目の前が暗くなる。
 暗転。
 しばらく気を失ってしまう。
 体調によっては、眠ってしまうこともある。
 遠くから子供の声が聞こえて、やっと目が覚めた。
 背中に毛布がかかっていた。子供たちがかけてくれたのだろう。
 お腹が空いているミスティとクレアが、開けていい戸棚からパンと紙パックの麦茶を出して食べていた。
 パンと飲み物は私が動けない時のために用意してある。
「お母さん、大丈夫?」
 子供たちが、起き上がった私に声をかけてくれた。
「うん。いつも心配かけてごめんね。自分たちで準備してくれたの? ありがとう」
 私の言葉にミスティが答える。
「ううん。このくらい自分でできるから」
「頼もしいね。出かける前にシチュー作って行ったんだけど、まだお腹空いてる?」
「うん、小さいパンしか食べてないよ」
「私も!」
 このくらいの時期は、とにかくカレー、シチュー、煮物のどれかを作ってから仕事に行っていた。
 私が元気な時はもっとおかずの種類も多かったし、栄養バランスも考えていた。でも、もう食べさせるだけで精一杯になってしまった。

 それでも私は、頑張ることをやめなかった。
 負けてたまるか。私にはできる。
 絶対に。
 負けない、と……。

 思っていたのにな。

 ある日、何も悲しくないのに涙が止まらなくなった。
 死にたいと思った。静かな感情ではない、必死の焦燥感だった。
 ひとは、悲観して、絶望して、死にたいと思うものではないのか。
 希死念慮に理由はない。
 堤防が決壊したような、激流だった。
 
 もう、限界だったのかもしれない。
 恵まれていた。仕事も楽しい、人にも恵まれている、大切にされている。
 泣く理由も死ぬ理由もわからない。今が一番幸せなのだ。
 
 ああ、私、普通じゃないな。病院に行かなきゃ。


 心療内科の予約は、一か月後。
 人気のある病院の初診は、かなり待つこともある。
 私の様子と問診票を見た先生は、うつ病だと告げた。
 細身で薄幸そうな若い女医だった。
 私は少しホッとした。私が辛いのは、私が弱いから、怠けているからではなかった。
 それでも、弱音を吐くことへの罪悪感が消えない。

 だって、子供は親を選べない。私には子供たちを幸せにする責任があるもの。守れるのは私しかいないんだ。私はもっと、強くならなきゃ。


故郷の母

 住んでいた街には長い間に人脈もでき、幸せに暮らせる場所になっていた。仕事も楽しかったし、離れたくなかった。
 他のどこよりも、私を愛してくれた場所だった。
 私の世界だ。
 親の世界でも、夫の世界でもなく、私の。

 でも、住んでいた地域には大学病院がない。
 大学病院の眼科に通うには、札幌に近いほうが都合よかった。
 実家から札幌に通うことはできるけれど、母のところに帰りたくなくて、札幌に近い街に移り住んだ。

 実家と行き来できる距離に暮らすようになって、母からの干渉が酷くなった。

 引っ越しをきっかけに激鬱状態になった私は、新しい病院で診断名が変わった。就職活動をしていたが、すぐにドクターストップがかかる。
 私の鬱病や双極性障害について、母は無理解だった。
「おまえの心が弱いから」
「いつまで薬に頼ってるの?」

 母はSNSを監視して私の生活を追っていた。
 私はそうと知らず、普通にフォロワーさんと交流していた。
 そこで何か弱音を吐くと、母から電話が来る。
 それがどうも事情を知っているような口ぶりなのだ。
 怖くなって、違うアカウントを作った。

 母は私たちの近くにいたのだから、病気を抱えた私がどれだけ頑張って子供を育ててきたか、理解してくれていると思ってた。
 
 だんだん病勢が悪化して、何もしてあげられなくなったことが、どれだけ悔しかったか。悔しくて悔しくて、今でも悔しくて堪らない。
 もっともっと、たくさんのことをしてあげたかった。
 子供たちにはいろんなことをしたよ。
 でももっともっと、全然足りなかった。
 母には、私の気持ちがわからないのかもしれない。

 子供は子供だから、わけのわからないこともするし、悪いこともする。まだできないこともいっぱいある。
 完璧にやれたとは思わないが、それなりに躾もしたつもりだ。
 怒鳴りつけたり殴ったりはしなかったから、甘やかしていると思われていたけれど、「礼儀正しい子供たち」と、周囲からの評判も良かった。
 
 でも、母のように厳しくきちんと、親の言うことに従うように育てなかったから、私の子育てはダメなのらしい。甘やかし過ぎだと何度も言われた。

 私は、子供たちに私のようになって欲しくなかった。
 親に愛されてる実感を持ち、自信を持って育って欲しかった。

 私は愛されることが苦手だ。極端に苦手だ。
 誰かに愛されても、信じられないし、理解できない。
 利用されている、搾取されていると感じてしまう。
 それが離婚した要因のひとつかもしれない。
 元夫は何故だか私を愛してくれていたけれど、私は彼の言う愛情なんか、何の価値もないと思っていた。愛なんて彼の思い込み、もしくは嘘。
 離婚して、何年も何年も経って、彼が再婚して、それからさらに何年も何年も経って気付いた。
 私が、彼の愛情を信じることができていたら、違う未来があったのかな。
 そして、後悔した。
 あんなに冷たくすること、なかったじゃないか。
 平気なふりしていたけど、きっと傷ついていたよね。
 好きじゃない、愛してない、あなたの愛なんて信じられない。
 だって、愛され方がわからないよ。
 
 子供たちはそういう人生を送らないで済むように。

 寝込んでしまって家事が滞った時、福祉課の職員から「母親失格」「子供は施設に入れるべき」と言われた。
「私が死んだ方が、みんな幸せになれるんだろうな」と思った。
 もし私が病気じゃなかったら、きっとこうして家のことに介入されることはなかったよね……そう思うと、悔しかった。
 わたしだって、もっとできたはずなのに。
 もっとちゃんと。
 ずっとそんな葛藤を抱えて生きてきた。
 
 子供たちが、自分の意思を持って生きていけること。
 家庭の楽しさの中で生きることを学べること。
 愛情を受け止め幸せを感じられる心を育てること。
 そして、いつか大人になった子供たちを、信じて手放すこと。
 これが私の子育ての目標。


毒親に毒親って言われた話

 月に一度、母が泊まりがけで家に来る。

 先日、少し前にあった伯母の葬儀の話を聞いた。
 私は事情があって出席しなかった。
 伯父はアル中モラハラDVな人である。
 伯母はどんなに酷い目に遭って怪我して大喧嘩して家出を繰り返してヒモ状態になった伯父を養うはめになっても、結局伯父が死ぬまで側にいた。
 時々浮気しているような噂は聞いたけど、愛とか情とかあったのかな。
 伯父は自分の息子をあまり好きではなかったらしい。
 葬儀の時に、「母さんはどうして早く離婚してくれなかったんだ……」と嘆いていたそうだ。
 あの家は、両親とも毒親な感じだったからねぇ、という話になった。

 うちも似たようなものだった。
 母は、父の悪口ばかり言う。
 私も妹もそれを聞いて育ったから、単身赴任で離れて暮らしている父の印象は最悪だ。
 父も言動が不用意な人なので、ピンポイントで地雷を踏み抜いてくるから、長いこと嫌っていた。
 そして、父と母が別々に愚痴電話をかけてくるようになった。
 鬱の時には、ほんとうにキツかった。

 自分はいつだって離婚してもいいんだ。
 あいつの言ってること、おかしいだろ?
 離婚して困るのはあいつの方だからな。

 二人とも同じことを言っている。
「そんなに嫌なら、離婚しなよ」
 私も妹も、何度言ったかわからない。
 でも、二人ともデモデモダッテちゃんになってしまい、別れる様子はなかった。
 夫婦喧嘩は犬も食わないというけれど、だったら巻き込まないでくれと、子供の立場では思うなぁ。

 私は、離婚する時も夫婦喧嘩なんて見せなかったぞ。
 それは元夫も同じふうに思っていて。

 離婚する前に、子供たちと話した。
 離婚することと、その理由。
 これからはお父さんと離れて暮らすこと。
 でも会いたくなったらいつでも会っていいこと。
 お母さんと暮らしても、お父さんのことを変わらずに好きでいていいこと。
 お父さんはいつも、子供たちのことが大好きだということ。

 母が言った。
「あんたも子供たちから毒親って言われるんじゃない?」
 
は?
 
びっくりした。そりゃもう目玉が飛び出るかと思った。
 たくさん傷つくことをされたり言われたりしてきたけれど、こんなに苦しい言葉があるだろうか。

「子供から毒親って言われるかも」ってことがショックだったわけじゃなくて、「毒親に毒親扱いされた」ことに驚愕。
 マジで? 嘘だろ?
 今までのあらすじを全部見てきたあなたが、全部否定するの?

 妹は、「子供たちがそう思っていないなら、あの人にそんなこと言われる筋合いないよ。君は今なら児相案件になるようなこといっぱいされてたじゃん」って言ってくれた。

 母の言葉がすっごいショックでさ、何も言い返せなかった。
 いや、言い返したか。
「子供たちにそう言われる覚悟はしている」って答えた。
 そしたら、「へぇ?」って鼻で笑われた。

 それからしばらく引きずっていた。
 一か月くらいはたっぷり引きずっていたよ。
 娘は「何でばーちゃんはそんなこと言うかなぁ?」と呆れていた。

 だいたい、精神病んでる人に暴言吐くって何?
 死んで欲しいの?

 娘が成人した時に、「私の子育てはどうでしたか?」と聞いたことがある。その時に、過去に不満に思ったことを話してくれた。
「お母さんは病気でたいてい辛そうだったから、悩みを相談することができなかった。お兄ちゃんのことでいろいろあった時期だったから、これ以上負担にはなりたくなくて……」
 あ~、そうか、そうだよね。
 思いやりだね、ありがとう。
 それでも、私が保護者なんだから、相談してくれて良かったんだよ。
 もっといろいろ対応してあげないといけなかったよね。
 何にも知らなくてごめんね。

 だから、私の子育てが完璧だったっていうつもりはないんだよ。
 頼りない母親で、申し訳なかったなって思ってる。
 至らないところはきっとたくさんあった。
 
 だけどさ、育児に奮闘してきた実の娘に『毒親』っていうのも、普通の神経ではないと思うよ。
 

 それから少し経って、久しぶりに息子と会った。
 息子は既に結婚しているので、そう頻繁には会わない。
 お嫁さんに悪いので、LINEの頻度なども抑えている。

「ばーちゃんに毒親って言われたさ~。毒親に毒親って言われるのは、なーんかショックだわ~」という話をした。

「はぁ……? それはばーちゃんに言われたくないよな~。ば~ちゃんは俺から見てもこれはどうかと思うことが多いんだよね。世話になったし、悪い人じゃないんだけどさ」

「おかんはかなり自由にさせてくれたし、俺はのびのび暮らしてたぞ~。友達の方が、過干渉とか束縛とか虐待とか大変そうだった。まわりは『お母さんが病気で大変だね』って同情してくれるけど、実は同情されるほど病人として配慮してないんだよな~」

「好きなことさせてくれて、甘えさせてくれて、俺はわりと幸せに育ったと思うよ。だから、おかんはいい親だったんじゃない?」

 自由にさせたというか、何でも相談してくれたから、特に心配してなかったというか。
 楽しかったんだよね~、彼らといる生活が。
 もちろん躁鬱真っ只中で、だいぶ正気が留守の時代もあった。
 前述のように、悔しさもずっと抱えてた。
 そんな中でも、一緒にいっぱい楽しいことを考えて、話して、笑い合える日々が本当に貴重でかけがえなくて。
 永遠に終わらないで欲しかったんだけど、だけど、ちゃんと手放したよ。
 二十年も同じ時間を共有してくれたことにすっごく感謝してる。

「一瞬再婚した時に迷惑をかけちゃったから、恨まれても仕方ないとは思ってるんだよね(子供たちが虐待されたので)」

「仕方ないよ、結婚なんてガチャじゃん。あのままずるずるしないで離婚してくれて本当に良かった。あの時に離婚してなかったら全然違う人生になってたと思う」

 まぁ、気を遣ってくれてるというのはわかってるけど。
 やっぱりうちの息子はいい男だな。(親バカ)


障害者を差別しているのは誰なのか

 2024年7月3日、旧優生保護法裁判の判決が出た。
 皆さまはこの法律をご存知だろうか。
 戦後最大規模の重大な人権侵害と言われているもので、それは人権を保証してくれるはずの日本国憲法から見ると違憲なのではないだろうか、という裁判である。

 法律の内容は、遺伝性疾患、精神障害者、知的障害者、その他の人に対して強制的に不妊手術や堕胎を行えるというものだ。
 この法律は、1948年~1996年まで施行されていた。
 まだ産まれていない方もいるかもしれないが、私にとっての1996年はつい最近の話。当時私は学生で、健康だったし、こんな法律があるなんて全く知らなかった。

 戦後、第一次ベビーブームが起きて、人口が過剰になった。
 人口が過剰になると、食糧難が起きる。
 当時の政策により一般の家庭でも産児制限が普及していく。
『産むな殖やすな』である。
 そして、障害者には不妊手術をしてしまえばいい。手術してしまえばもう子供は産まれない。
 障害者から産まれる子なんて、どうせまともじゃないから、産まれないようにしよう、殺してしまおう。そのほうが、母親にとっても、社会にとってもいいに決まっている。
 そういう背景、思想から生まれた法律である。
「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」

 判決が出てからのコメントで、今でもこの考え方を支持する人が少なくないことに、少し驚いた。優生思想っていうんだったかな。
 この問題についてじっくり考えたことはなかったけれど、午前中にニュースで知って、15時の判決を待ってみた。
 私は、勝訴で良かったと思う。

 この裁判は「旧優生保護法は憲法違反なのかどうか」など法的なことが争われていて、誰かの気持ちがどうこうというものではないのだと思うけど、でも被害に遭った人たちのことは少し考えてしまうな。

 今は障害者もぬくぬく暮らしているけれど、社会に問題が起きた時真っ先に切り捨てられるのは我々だってこと、覚えていたほうがいいんだろう。

 世間話として母に「旧優生保護法の裁判、判決出たねぇ~。勝って良かったよね」って言ったら、明らかに嫌そうな反応。
 その反応を見て「あ~、やっぱりこの人はこの法律に賛成するタイプなんだな」と思った。

 他人の思想なんてどうでもいいといえばどうでもいいんだけど、本人の意思とは無関係に妊娠を諦めさせようっていうのは私もやられたわけで。

 人権って何だろうね?

 私の発病後、母は私の知らないうちに子供を児童養護施設に入れようと画策してみたり、私を病院から出さないでと主治医に直談判したりしていた(当時の夫に内緒で)。

 育ててもらったのに、こんなに世話になっているのに。
 私は薄情な悪い子だ。
 今の主治医は、初診の時に私の過去を見て「これだけ心配かけていたら仕方ないですよ」って言った。
 他人から見てもそう思うのか、やっぱり私に問題があるんだなと思った。

 大人ならば、黙って感謝して、感情を殺して納得するべき。

 私の人生は、大人になっても親に致命的な干渉をされるほど出来損ないで悪いものだったのだろうか。

 母に、「(精神)障害者について差別感情あるでしょ」と訊いたら、「そりゃあね」と言われた。

 母が、職場に発達障害っぽい新人がいると愚痴を言う。
 他の社員も噂しているそうだが、本人がカミングアウトしていないのなら、そういうことは言わないほうがいいんじゃない? ……って言っても、当然聞きやしない。

 物事を覚えられない、何回言っても理解しない。だから障害があるんだと愚痴っていたけれど。本当にそうなのかな?
 もしかしたら教え方が悪いんじゃないのかと疑っている。

 母はひとにものを教えるのが下手だ。
 何のことでもそうだけれど。
 子供の頃、編み物を教わろうとしたことがあるけれど、全然わからなかった。
 従姉妹が教えてくれたかぎ針編みはすぐに理解できたのに。

「見て覚えなさい。技術は盗むものだから」
 わからないよ。もっとゆっくり見せてよ。
 でも、全然私に合わせてくれない。そして必ず言う。
「あんたは本当に不器用だね」

 仕事がやりにくいのはわかるんだけど、そうやって障害だと差別されてるような話を聞くと、私も傷つくんだけどね。


キチガイは夢を見る

 母を家に泊めた。
 毒親だとか言って嫌がっているのにだらしない私。
 情があってなかなか離れられないのだから、嫌な思いをするのも自業自得かもしれない。
 でも、このまま両親が死ぬまでつき合っていこうと思っていた。
 近いところにいる身内は私だし、親はいつ何があってもおかしくない年頃だ。
 だから、もう少しだけ我慢しよう、側にいようと思っていた。

 母には重要な話をしないようにしていたのに、今回はつい話過ぎてしまった。
 死にたいと思わなくなったことが、自分で嬉しかったんだよね。
 十年以上、いつも生きてることにうんざりしていて、未来なんて考えられなかったから。
 だから、長生きしたいな、諦めたくないな、と思うようになれたことが嬉しかったの。
 前向きな私に、母も安心してくれるかもしれないと思っちゃった。

 バカだなあ、黙っていれば良かったのに。

 私の話を聞いて、母は不自然に黙りこくっていた。
 本当に、ふんわりとした世間話だったんだよ。
 ただ、「作家になれたらいいなぁ」「公募に出してみようかなって思ってる」と言ったんだ。
 私が小説を書いてても、別に誰も困らないはず。
 もう子供は大きいし、生活に追われているわけではないから。
 何か、私が作家になりたいと思うことに問題でもあるのか。
 母は、そんな私を憐れむように見ている。うっすら笑って。

「かわいそう。キチガイなのに、分不相応の夢を見て」

 言わなきゃよかった。
 母は私に何もして欲しくない、それははわかってたんだから。

 まぁ、ショックだったけれど、それはそれでいい。
 それを「心配してる」というのなら、そうなのかもしれない。 
 
 でも、親はいつまでも生きられないし、私は私で生きていかなきゃいけない。
 だからつい、前向きな自分を知ってもらって安心させたかった。
 ああ、やっぱり私は生きてちゃいけないんだ、と思ってしまった。
 これからも呼吸する屍でいなくちゃならない。
 死んではいけないけれど、生きようとしてもいけない。
「生きる」って、呼吸をして心臓を動かしていることだけではないよ。

 それでも致命傷を負わなくなったのは、毒親って概念を得ることができたからだと思う。毒親と言う言葉で決めつけるのはダメという人もいるけど、
このひとは私を傷つける人だって覚悟ができるから。


母の記憶

 もう無理だと思った。母の横暴についていけない。
 記憶が改竄されているようで、私の記憶、記録と食い違う。
 関係者の証言とも食い違っているから、私の思い違いではないだろう。

 これって認知症の始まりなのだろうか。
 改竄された記憶で、私たちのことを判断しているようだ。
「あんたあの時◯◯◯って言ったでしょ、絶対言った」
 でも、当時の状況を考えても、それはあり得ないことなのだ。

 私が初めて精神科に入院した時、前日に自殺企図はあったものの、病院に行った時には落ち着いていた。むしろちょっと機嫌が良かったくらいだ。
 当時ストレスがとんでもなくて、症状というより、疲れきっていただけだったのかもしれない。

 主治医に「入院して薬の調整しつつ、少し休みませんか?」と言われて、納得して入院した。
 主治医のことは信頼していたし、和やかなやりとりだった。
 まだ離婚していなかったので、家から元夫②の運転で病院に行った。
 診察室には夫と一緒に入った。入院と聞いて夫が嫌な顔をしたことも覚えている。

 が、母は自分が私を病院に送っていったと言う。
 私が車の後部座席で怯えて震えながら、「電気ショックするんでしょう?」「鉄格子の病室にとじこめるんでしょう?」とか言っていたらしい。

 いやいやいやいや! そんなこと言わないって!

 電気けいれん療法するような状況ではなかったよね?
 あれ麻酔とかいるし、今どきそんな簡単にするものじゃないと思っているんだけど。
 主治医が私の意見も聞かずにそんなことするとも思えない。
 最近の病院に鉄格子無いし。

 もしかしてそういう記憶になっているから、私をキチガイだと言っているのか?

 母が子供の頃、身内が統合失調症で入院しているのをお見舞いに行ったらしいんだけれど、その時の記憶が混ざっているのだろうか。
 当時は治療法があまりなかったこともあって、だいぶ凄かったらしい。
 その時代は、鉄格子の窓だったのかも。
 詳しいことは聞かされていないが、薬物療法が出始めくらいだろうし、電気ショックも今より一般的だったのかもしれない。

 母がおかしいことばかり言うので、私も母に対して長年もやもやしていることを言った。
「私が入院している時、『まだ娘を退院させないでくれ。もっと長く病院に置いてくれ』って先生に直談判したんでしょ? あの時、先生が困った顔で私に言いに来たんだよ」
 当時、主治医と話してすでに退院予定日は決まっていた。
 でも母はどうやら、私が退院することに反対だったらしい。
 じゃあ、まず私にそれを言えばいいのに……。
 いつもそう。他人の人生を勝手に決めて、行動するの。

 私は入院が長引くことより、母が勝手に私の人生を変えようとしたことがショックだった。
 それまでは、人生のほとんどを任せても大丈夫な人間だと思っていた。
 そんなことはなかった。青天の霹靂って感じ。
 あの時私は初めて母にはっきりとした疑問を抱いた。
(そもそも母に、私の入院期間に対して口を出す権利あったの?)

 すると母は、「私はそんなこと言ってない」と言う。
「言ったよ、先生の困った顔も覚えてる」
「そんなの先生がおかしいことを言ってただけ! 先生が狂ってるんだ」

 いやいやいやいや、何言ってんの。
 先生は狂ってないって。嘘をついても何の得もないって。
 今後母が来たら私が立ち会えるようにしてくれる約束をしたくらいだし。

「とにかく絶対言ってない!」
「でも私記録してるよ? 入院中も日記書いてたし」
「あんたが頭おかしい状態で書いただけでしょ!」

 …………。
 大丈夫かな、これから。

※もちろん予定通りの日に退院しました。


母の横暴とクレア

 母が来るというので、クレアと一緒に最寄り駅まで迎えに行った。
「荷物、持つかい?」
 そう言って、私は母の荷物を持った。
 旅行帰りなので、キャリーケースと大きなトートバッグである。
 その時、母はもうひとつバッグを持っていた。
 それほど重くなさそうなので、それに関しては私も手を出さなかった。
 すると母が怒鳴った。
「年寄りをこき使う気かい!」
 は?
 母が言うには、クレアが自分から「荷物持つよ」って言わなかったのがおかしいというのだ。
 とりあえず、それ「こき使う」って言わないよね?
 自分で自分の荷物持ってるだけじゃん。

 そこで、頭痛と寝不足で調子の悪かったクレアが離脱。
 先にバスに乗って帰っていった。

 母はクレアに対して激怒、罵詈雑言。
 いや私に言われても、親として不愉快なだけですけど……?
 でも母は、私が母の味方になると思っているようで。

「一度思い知らせてやらないと」とか、「今後のこともあるし」「私にも考えがある」とか、「いくら孫だからって許せない」など、不穏なことを連発。

「リア友がいないなんて、将来が心配」
※勝手に決めつけてますが、リア友いますよ……?

「人生舐めてる」

「あんたのように自主的に荷物を持ってくれるのが当然でしょ。年寄りをいたわる心のない子だね」

 持って欲しいなら頼めばいいじゃん。
「何で私が? 言わなくても持つものでしょ」

 私もなかなか母の支配から逃れられないので、母といる時の不安とか嫌な記憶とかいろいろで気持ち悪くなってくる。
 自室に戻り、ひとりになっても、脳が興奮していて眠れない。
 それどころか何か起きそう。過呼吸とか。ああ、嫌だなあ、こういうの。

 
 母に、「私は子供たちに何かしてもらいたい時はお願いするし、してもらったらありがとうって言うよ。そういうことを大事にする人になって欲しいから」と言ったら、これもキレられた。
「あんたは余裕があるからでしょ! 私はそんな余裕なかった! 子供にありがとうなんて言う余裕なんてなかった!」

 ああ、本当に話せば話すほど疲れるから、もうしばらく会いたくない。
 家にいる間ずっと言い争いしているような会話をしていて、くたくた。
 来月また泊まりに来るらしいけど……。いつからそれが当たり前になったの?
 電話も出たくないのだけど、以前電話に出なかったら家まで押しかけてきたからな……そして母は我が家の鍵を持っている。


母の言い訳

 少し気分が落ち着いたので、妹と少しLINEのやりとりをした。

 どうやら母に、「最近落ちこむことがあって、ずっと寝込んでた」のようなことを言われたらしい。
 まぁ、先日のアレやな……とは思った。結構言い争ったからね。
 でもさ、私、母のことで寝込んだこと、何度もあるよ。
 何ヶ月もくよくよ悩んだりもしたよ。
 数日寝込んだくらいで、こちらとしては何にも思わない。
 むしろ、元気そうだねって感じ。

 最初の方に書いたかと思うけれど、母は子供が好きではない。
 だから小さい頃、妹の面倒をみるのは私の役目だった。
 いつも一緒にいなくてはいけないので、連れて歩いた。
 保育園に迎えに行ったりもさせられた。
 今なら小学生に保育園の子を迎えに行かせるなんてあり得ないし、そのまま送り出す保育士さんもいないだろう。
 あれは良くなかったよ、今なら許されないよ、と言うと、「昔は上の子が下の子を育てるのがあたりまえだった」と言う。
 そして、「あんただって、ミスティにクレアの世話丸投げしたじゃん!」と言う。
 え~。何それ。そんなふうに見えてたの?
 だんだん、もう無理かなぁ~って感じになってきた。

 母の中では、私がミスティに家事を全部任せて、クレアの育児までさせたことになっている。
 なんだろうか……。その記憶はどこから来るのかな……?
 私と妹は五歳差なので、それなりに面倒をみることはできたけど。
 ミスティとクレアにそれほど年の差はない。
 勉強を教えてあげてと頼んだことはあるけど、兄なんだから妹のお世話しろなんて押しつけたことはないぞ……。
 そもそも、私はミスティをお兄ちゃんと呼ばない。
 兄としての特権も責任も与えなかった。
 家事は長年ホームヘルパーさんが来てくれていたので、むしろ子供たちは何にもしていなかったくらいだ。
 ミスティが力仕事とか、ゴミ出しに行ってくれてたくらいか。

 娘が私を『君』って呼ぶことがあるって話をしたら、某所から「お気持ち表明」が届いた。
 私は成人した子供たちは同列だと思っているので、『君』でいいと思っている。
 親子に上下関係があると思っている人は好きにすればいい。別にあなたの家のことなんかどうでもいい。本当に好きにしたらいいよ。
「同等か目下の者に使う言葉、誰にでも使っていい言葉ではない」って、そんなことは知ってるの!
 知ってて、我が家では「可」だとしてるの。
 わかる? わかんないよね? 他人が口出しすんなってこと!

 うん、ずっと怒ってたんだ。返信しなかったけど、正直激怒してた。

 つまり、私は子供に何も押しつけない。
 お願いはするけど、彼らに拒否する権利はある。
 自由な心でいて欲しい。
 普通に親に甘えて、少しだらしないくらいの子供でいていいんだよ。

 先日も『私は親バカなので、クレアは最高に可愛いし、君のことも最高だと思ってるよ~』とミスティにLINEしたら、『知ってる、笑』って返ってきた。


もう、我慢するのはやめる

 もういいや。
 傷つきながらでも、親が死ぬまで我慢するつもりでいた。
 親に何かあったら、私が何とかしなきゃと思っていた。
 絶縁してもそれは変わらないのかもしれないけど、とにかくしばらく休みたい。

 母を着信拒否した。LINEもブロックした。
 絶縁宣言をしたわけではない。自分の心に決めただけだ。
 妹には事情を話してあるけれど。

 その気になればSNSなどから連絡できるだろうが、とりあえずこれで少しの間、心の安寧は守られる。
 何かしら理由をつけて急襲してくるタイプの人なので、ドアには常にチェーンをかけることにした。管理人室に行って暴れるかもしれないけれど、それはもうなるようにしかならない。警察を呼んでくれと言おう。

 まぁ、私にはもう関係無いよ。
 そのうち私と連絡つかないことに気付いて、また一波乱あるんだろう。
 母は何か誤解している。
 私が母の味方をすると思っているみたいだ。
 でも私はどんなことがあってもクレアの味方だよ。

 それがわからないなら、母に私の気持ちは永遠に理解できないだろうね。


 なんだか文章がフラフラしているな、そんな私もフラフラだ。
 誰の悪口でもないつもり。
 母親の愛情を得られなかった人間の末路を書いただけ。

 毎日、家族が寝静まった後に朝まで書いているから、超眠い。
 とりあえずこれを投稿したら、休みます。
 今日は良い天気ー。予想最高気温は23℃。


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