WASS -June 31st- Part_1
ChapTer_I:五月二九日月曜日 晴れ
"記憶が思い出になってしまえば
それで終わりだ
詳細も苦楽もあらかた忘れ
上澄みだけが煮詰まった
甘くて苦いシロップのよう
記憶を結ぶのはやめてくれって言ったんだ
今君に火を点けた
思い出の中でだ
君は不敵に笑うんだ
夢であったら良かった
寝なければ会わないから
眠らない夜は明日になった
それが今日
あの日の今日を集めた今日だ"
[改葬]
湧水が有名なこの町は,流れ込む川によって大きく南北二つに区分されている.北側は国道が東西に走り,役所関係や,町の収入源の一つとなっているであろう,年を経るごとに拡大し続けているショッピングモールがある.それに対して南側は,スーパーが二軒と百円均一が一軒,寂れたパチンコ屋と,あとは神社が存在する程度の,閑静という言葉がしっくりとくる住宅街である.ただ,北側南側と説明したものの,日頃生活する上ではこの区分を感じることは基本的にない.あまり大きな町でもないので,中学生ともなれば,休日には北も南も関係なく自転車に跨って,件の自己増殖し続ける商業施設に向かうのが日常だった.しかし,この南北差が唯一顕在化する状況が存在する.
それが学区だ.特に,中学校はこの町には二つしかなく,川を隔てて北側に住んでいると町立北中学校,南側に住んでいると町立南中学校に進むという子供がほとんどだった.私が通っていた南中学校は,北中学校と異なり,一つの小学校からほぼ持ち上がりで進学する.そのため,進学というより,進級という感覚の方が強かったのを覚えている.この南中学校は,町の最南端に位置しており,車道を一本越えると隣町だった.遠足で必ず登る標高三百メートル級の小さな山が近く,夏の教室は下敷きで扇ぐほわんほわんという音と,アブラゼミの鳴き声で満ちていた.
私はこの中学校と山を挟んで反対側に住んでいた.といっても,山沿いに少し歩いて行くと切通があり,そこを通って十五分もかからず登校することができた.走って八分だったのを記憶している.中学三年生にもなると慣れてきて,始業間際に正門をくぐることが何度かあったからだ.道沿いには桜が植えられていた.春になると薄桃色一色に染まる.傍目にはとても風情ある通学路であったとは思うが,葉桜の季節は,友人がデンキムシ落下傘部隊に撃墜されてから,いつ自分のところへ進軍してくるか気が気でなかった.桜並木を抜け,悪臭漂うリサイクル品収集場と小綺麗な公園,ゴルフの打ちっ放しを横目に歩いて行くと,町立南中学校はあった.
私は今日,この中学校へ来た.しかも,朝練でもない(そもそも部活に入っていない)のに,ホームルーム始業から数えて二時間も前という,どんな優等生でも目を見開いて驚くだろう登校時間である.しかし,学ランは着ておらず,学校指定の青い背負うタイプの鞄も持っていない.使用していると何故か大抵指導される整髪料でシャキッと頭髪を固め,ネクタイを締めた挙句,黒い手提げ鞄を携帯していて,もちろんその中に体育着は入れていない.実は,趣があると自慢した通学路も今日は通ってきていないし,何なら,私は今この町に住んですらいない.そして,一番大事なことが一つ.
私はもう,多感な中学生ではない.
何の因果だろうか,私はこの学校に「教育実習生」として戻ってきたのだ.加えて,今日は実に七年ぶりの登校である.
久しく訪れていなかった駐車場に立つと,様々なことを思い出す.ほとんど人気投票に近かった生徒会選挙活動の一環である挨拶運動.当時初の試みだった,文化祭の目玉となる全校生徒参加型齣撮りビデオ制作.遅刻判定をするために,時計と生徒を交互に見ながら腕組みして立っていた筋骨隆々の英語教師と正門.
大して思い入れのない思い出たちが次から次へと頭に浮かんでくる中,正門を横目に私は通用門へ回り込んだ.一台だけ公衆電話がおいてある関係者専用エントランスから学校へ入り,事務員さんに名前を告げた.
「おはようございます.XXXX XXXと申します.」
簡単な手続きを済ませ,生徒は年に一度の大掃除くらいでしか中を見ることのなかった会議室へと通された.
「こちらです.」
未だ慣れない革靴からスリッパへと履き替え,当時はよく忘れ物をして利用していたなあ,と今では目にするのが難しくなった黄色いボディの公衆電話を横目に,会議室へと向かう.途中,校長室の前を通った.生徒としては珍しく,当時,卒業アルバムを携えて校長先生にコメントとサインを頂きに突撃するという奇行を働いたため,とても懐かしく思った.まだあの謎の切り株は残っているのだろうか.そして,あまり来ることのなかったこの後者奥の廊下も,いざ久しく通ってみると,どこか懐かしく思えるものである.見覚えのある景色に加え,嗅ぎ覚えのある校舎の匂いや,時間的に久しいという事実を脳が認識し付加した情報の所為だろうか.
しかし,現実問題として,昔と変わらないのはせいぜいこの校舎という冷たい物質くらいだろう.人間というものは極めて流動的である.一緒に学んでいたYやHなどの学友はもちろんのこと,何故か仲の良かった校長先生をはじめ,英語科でありながら,マッチョかつスキンヘッドかつ柔道部顧問かつ学年主任という要素を詰め込みすぎていたS先生も,サングラスをかけるとその筋の人にしか見えない体育科のU先生も,私が嫌だ嫌だと言い続けるも,諦めろと笑い飛ばされ,結局三年間担任だった理科のK先生も,私の思い出にのみ生存する過去の人だ.もちろん,これはあくまでたとえ話であって,もう既に亡くなっているというわけではない.どこかの学校で,教諭として現役の生徒たちと戦っているのだろう.もしかしたら,あの憎たらしかったK先生は,年齢的に教頭先生や校長先生クラスの人材になっているかもしれない.大変お世話になった.
何にせよ,私が思い浮かべる南中学校とは,見た目こそ変わらないが,全く異なった学校になってしまっている,ということだ.
会議室のドアを開けると,そこには既に数人の教育実習生がいた.男女もさながら,文系理系もバラバラで,皆担当する教科が少しずつ違うようだ.独立したキャンパスの所為で,ほぼ単科大学に通っているような感覚の私にとって,様々な分野の人間が集う場というのはとても新鮮な気持ちになる.殊に,最近ほぼ研究室と家を往復するだけの生活であった私は,あまり感じたことのない,そわそわと何だか擽られているかのような,身の引き締まる空気感を覚えた.お互い自己紹介をしているうちに定刻になると,「現」教頭先生が会議室へと入ってこられ,私たち実習生に挨拶をした.
長く短い,教育実習の開幕であるーーーーーー
......と,仰々しくまとめたものの,あまり多くを語るつもりはない.テンプレート的なことを言うおうと思えば,初日は初めてのことだらけで刺激過多な一日であった,というくらいだ.基本的には指導教諭の後ろを,某電気鼠キャラクターよろしく付いて回り,職員室や教室を移動,学校自体のシステムや授業を見学し,常にメモを取り続けるという一日だった.加えて,まだまだうわべだけの会話が多いが,他の実習生とも言葉を交わし,少しだけ仲良くなった.同じく理科を教える実習生は,昆虫を食べる研究をしているらしいということで,そのうち詳しく聞いてみたいと思った.彼曰く,ゴキブリを食べてからが一人前なのだそうだ.さらに,一番驚いたのは,担当してくださっている理科教諭の出身地が私と同じだったことである.生徒には隠しているらしいので,教科準備室で地元トークに蕾をつけた.実習中になんとか花を咲かせられたらと考えている.
大学から指定されているフォーマット通りに,一日のまとめをワープロソフトで手早く仕上げ,指導教諭からコメントをもらうと,荷物をまとめてから学校を出た.
「本日はありがとうございました.明日からもよろしくお願いします.それでは,お先に失礼いたします.」
もう18時になるが,さすが初夏といったところだろうか,校舎を出ると,外はまだ昼同然に明るかった.本来であればこのまま帰路につくが,今日は少し寄り道をしたい場所があった.私は少し周囲を見渡し,誰もいないことを確認すると,帰り道である右ではなく,道路を横断して,中学校の目の前にある,国が管轄しているらしい建物の脇を通り,閑散とした住宅街へと入っていった.
何故か人間の気配が全くない,不穏な住宅地の細い路地を抜けると,そこには小さな公園があった.
七年前と変わらず.
『こことかどうかな?人滅多に来ないし.しかも,春には桜がすごいんだ.』
町境となっている道路と,いつから営業していないのか定かでないクリーニング店跡がある急な上り坂に囲まれたこの場所は,鉄棒とブランコ,高台を利用した滑り台,青いジャングルジムが設置された,れっきとした公園ではある.ではある,と濁しているのは,ここで子供が遊んでいる姿を一度たりとも見たことがないからだ.しかし,雑草が繁茂しない程度には整備されており,春になると満開の桜が花を開く,私にとっては花見の隠れ家的ベストスポットだった.
『いいねーここ!学校からもすぐ来れるし.』
私は鉄のポールが立った入口の間を通り,公園内へと入った.背丈が若干高い芝生の上を歩き,他の遊具には目もくれず,ゆっくりとジャングルジムへと向う.
『あのジャングルジム登らない?』
スーツ姿のまま,ジャングルジムに手をかけ,登っていく.暖かい陽気とは裏腹に,ひんやりとした鉄の棒.頂上へと上がる途中で,風化した青い塗料がパラパラと黒いジャケットへ舞ったが,気にしないことにした.
『ジャングルジムなんて何年振りだよ!ウケる!!』
一番上までへたどり着くと,バーに対して後ろ手に体重をかけ,園内を見渡せるように座った.
『あ,学校見えるじゃん!』
通りすがりの誰かに見られたら,何かよくわからない怪しい人物に思われるだろう.だが幸いにも,この場所にはほとんど人が来ないし,この公園を囲う町境からジャングルジムは死角であり,かつ道路自体も,たまに車が通る程度なので,見られたとしても一瞬気づくかどうかである.
『僕たちに,グループ名みたいの,つけたくて考えたんだけど......』
「ええと......もう七年,も経ったのか......?早いなぁ.」
『ボクは面白いと思うよ!』
昔に思いを馳せながら,こうして回想をするたびに,なんだかんだ私も歳を食ったなと痛感する.悲しいかな,戻りたい過去もできてしまった.
『わたし,今日はすぐには帰りたくないかな......少し集まらない?』
戻りたいとは思わないけれど.
『雨......すごいね......』
私はよく,不思議な人だよね,とか,今まで会ったことないタイプ,だとか,ひねくれてるなぁ,などと評されることが多い.しかし,幼少期から,世間的にいう”変な子”だったわけではない.
『メロンパン持ってるけど,食べる?』
少なくとも私は,中学二年生までは,常に学年で一,二を争う程度には成績がよく,先生や親御さん受けの良い,真面目で”普通な”生徒だった.完全に,優等生ステレオタイプである.
『ふふふ,美味しいね.』
人には,所謂,ターニングポイント,というものが存在すると考えている.
『私,あんまりこういうの好きじゃないんだよね.』
或いは,ポイントオブノーリターン,といったほうが正しいのかもしれない.
『なーお前らって付き合ってんの?』
少なくとも私には,何かが己の中で変わったと,何か心の奥で激しく歪んだと自覚した瞬間が,現時点までの間で四点あって,その中でも"これ"が,一番最初の点である.
『良かった!わたしね,実はーーー』
ある種の,小規模なパラダイムシフト.
『あたし,もうなんだかものすごく気持ち悪くてさ,ご飯食べてないんだ.』
頭の片隅の,さらに奥の方へ追いやったはずの階層へアクセスを試みたからか,アラートのような耳鳴りがした.
『わたし,XXXXで本当に良かった......』
私はあの時,己で作り上げた至上の甘美を,自らの手で醜穢へと破壊したのだ.
『これは,XXです.』
これは,私が,まだ僕であった頃の話だ.