社会のすみっこ暮らし、考える
何故山を登るのか、という問いかけに対して「そこに山があるから」と答えたのは聞かれることにうんざりしたからだと、そう聞いたことがある。
作者の気持ちを答えなさいという文章題が出された時、題材になった作者の娘が作者本人に聞いてみたところ、真相は「締め切りのこと以外考えてなかった」とのことで、それを書いたら不正解になった、という噂も同様だ。
要するに、なんで書くのかと、そういう話である。
多分これは備忘録のようなものだろう。書いていないと、メモしていないと、忘れて、見失って、精神を病むから書き記す。
note健康法か? と突っ込みたくなるけれど、これが案外メンタルヘルスに効果があるので、教えてくださったフォロワーの方には頭が上がらない。
さて。私が「なろう」に登録して「なれ」ていない底辺漂流者、社会のすみっこ暮らしであることな周知の通りであるかもしれない。
それでもなんで物語を書きたいのか、書こうと思ったのか、その原点を考えると、多分ラブコメ作品「五等分の花嫁」に行き着くのだと思う。
五等分の花嫁。通称ごとよめ。アニメ二期を控えているのでネタバレは避けるが、私の推している子は選ばれなかった。
おかしい、こんなことは許されない。メロスが激怒するようにのたうち回り、そしていやでも作者がそう設定してたんだから仕方ないよなという諦めに途方に暮れて、そして考えるのだ。
──どうして、気弱なヒロインはいつだって気弱な自分から脱却することばかりを物語の主軸とされて、結ばれることがないのか。
これは私の観測範囲が偏っているからかもしれないが、気弱なヒロインが明確に「勝った」作品を私は知らない。
「アスラクライン」が辛うじてそうといえるのだろうか? いやでもあれ、原作だともにょもにょだしなあと、つまりはそういうことなのだ。
だから書いている。
悔しさと、なんの力もない無力感に打ちのめされながら、社会の隅っこを這い回るように、気弱なヒロインが報われるような話を、書いているのだ。
この悩みは私に人間力が、コンテンツ力が足りてないせいなのかどうかはわからない。でも多分、そうなのだと思う。
それでも、と、言い続けろと誰かが言った。
私は言い続けることができるのか。今日も社会のすみっこ暮らしは、考え、漂流するのみである。
そして相変わらず、拙作をご笑覧いただければ、これに勝る幸せはないので、下記にURLを宣伝することで、本稿の結びとするものである。