親ガチャ

自分の先輩が言っていた。「"親ガチャ"という言葉はどこか違うと思う。自分はとても恵まれている訳では無いが十分に幸せを感じているこの今を、宝くじを当てたかのような喜びには出来ない」と。

彼の言うことも真っ当だろう。彼がそう思うことについて自分は何も思わない。

しかし、"親ガチャ"が存在することもまた正しいことだと自分は思う。

自分はいたって普通の、一部の人からしたらこの上なく幸せなのだろうごく普通の家に生まれた。

人生100年時代といわれる今の世の中でまだその半分にも満たない人生を振り返れば、美化された思い出だとしても、美化できるほどには幸せな人生。自分は自分の家に特に不満を抱いてはいない。

しかし細かく見るとあまり十分とは言えない学歴のうえに癇癪を起こしやすく、子供のためとは思っているとは分かるのだが兄弟なのだから大して変わらないだろうという固定概念の元、子供に怒鳴り散らす母親や、対してエリートすぎる故に何故自らの子供がこんなことも出来ないのかと理解しきれていない父親。自分は父親に何かを聞いても結局は自分の不甲斐なさと父の面倒だと言わんばかりの溜息にメンタルなんて保てるわけもなく涙を流すのがオチだった。

それでも割と家族の仲はいいし旅行とかでも楽しめる。忙しくても定期的に全員で食卓を囲む機会もあるしちゃんと話も聞いてくれる。

こうした良い一面と悪い一面を考えつつも、自分は自分の家を"ごく普通の家庭"と結論付けた。"親ガチャ"でいったら真ん中。可もなく不可もなく。可もあり不可もあり。

だが、本当にそうだろうか。

この先は自分の話ではない。たまたまTwitterで流れてきた話や今まで自分が読んできた小説などから自分が得た知識を元に話す。人間が書くものなのだから多少誇張されている面もあるかもしれないが、自分はこれを真実として受け取る。

それ以前に何から得た知識でもなく、ニュースを見ていれば分かることだが、この世の中には親にならざるべきだった人間が一定数いる。日々報道される虐待のニュースを見ていれば一目瞭然だろう。

ただ、報道される事件は実際の量のほんのひと握りである。

そうした親は、自分の中で2種類に分けられる。

1.自分が全て、自己中心的な考え方で子供の存在が邪魔になり、自らのストレスなどを子供に発散する。また、躾と称して子供に過度な暴力を振るう。

2.子供が自分より幸せになることを許せず、子供の人生を全力で邪魔しにかかる。

どちらも許せることでないことに変わりはない。

だが筆者自身親が昭和を生きているものだからある程度の躾というか、このご時世でやってしまえば批判を受けるかもしれない教育は受けてきた。

だからといって虐待を擁護するわけではないが、それと似ている1番に関しては、まだ救いようがあるのではないかと思う。

自分が思うに、1番は親が子供に縛られすぎている。つまり、親がいい意味でも悪い意味でも子離れしなくてはいけない。「子供がいるせいで自分の全てを犠牲している」なんて、実際そういう時期もあるとは思うが、思い上がりも甚だしい。妊娠とは、出産とは、育児とはどういうことなのかを理解した上でその選択をしていると自分は信じている。ならばその責任を放棄する理由にはならない。

そして自分がどうしても理解が出来ないのは2番である。悲しいことにこんな親も存在するらしい。

例えば、受験前日に包丁を投げられる。奨学金を勝手に取り消される。など。それに対する児童相談所の対応なども物議を醸している。

まだそれで働けというなら筋は通っている。だが、授業料は一切出さない。バイトも禁止。となると、もう生きる道を閉ざされたと言っても過言ではないだろう。

人生は長い。幼少期に辛い時期を過ごしても、自立して大成功する人もいる。しかし、自立するための教育すら受けさせて貰えないとなると、やはり親の影響は大きい。

となると、"親ガチャ"が存在するのも否定は出来ないのではないだろうか。

「親」になることに資格はいらない。だからこそ、「親」になった人間は「子供」の人生を背負う覚悟と義務が発生する。しかし、それを放棄することができるのもまた「親」なのである。

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