240628_イスラム教とは何か。
【はじめに】
・日本には宗教に偏見を持つ人が多いが、実際には年中行事や生活習慣の中で宗教に触れる機会は非常に多い。
・お守りを身につけたりおみくじを引いたりお祓いをしたり、お墓参りに行ったりお葬式をあげたり、あまり意識しない中でも日本独自の宗教観や信仰心はそれなりに根付き、育っている。
・ただし一神教に対してはほとんど馴染みがなく、中でもイスラム教に対しては偏見を持つ人が多い。
・それは2001年アメリカ同時多発テロから続く戦争やテロ組織、拉致事件の影響が非常に強く、また厳しい戒律に対するイメージも重なる。
・先日トルコ🇹🇷を訪れて初めてイスラム教の文化に触れたが、現代の自由度の高いトルコではイスラム教の窮屈さを感じることはほとんどなかった。
・カッパドキアの歴史を知ることでトルコにおけるキリスト教とイスラム教の関係を学び、両者のせめぎ合いや時代の変遷について改めて興味を持ち、調べてみました。
【イスラム教徒はどのくらいいるのか?】
・世界人口約80億人のうち、約15億人の信者を持つイスラム教は、2100年には世界最大勢力になるかもしれないと言われている。
・現在キリスト教が25億人、ヒンドゥー教11億人、仏教5億人、ユダヤ教が数千万人程度とされるが、イスラム教徒の住む地域の出生率が非常に高いことに由来する。
・それぞれ代表的な国として、
⛪️キリスト教徒はアメリカやヨーロッパ圏を中心に、
🕌イスラム教徒はインドネシア・パキスタン・インド・エジプト・トルコとアラブ諸国を中心に、
🛕ヒンドゥー教徒はインド国内で10億人、その他ネパール・バングラデシュ・スリランカ・インドネシアにもいくらか、
📿仏教徒はスリランカ・ミャンマー・タイなど東南アジアを中心に、
🕍ユダヤ教徒はその数奇な運命からほとんどがイスラエルにいると思われるが、実際には同程のユダヤ教徒がアメリカにいる。
・世界最大のイスラム教国とされるインドネシアには人口の85%2億人のイスラム教徒がいるが、実はインドにも人口の14%1億7千万人のイスラム教徒がいて、その数は日本の人口を上回っている。
・世界の縮図を大きく変える存在として注目されるインドの人口は、1950年には3億5千万人だったが、2023年には14億2千万人となり世界第一位となり、イスラム教徒増加の大きな後押しともなっている。
【イスラム教の概要】
・イスラム教は、アッラーを唯一神とし、預言者ムハンマド(モハメッド)が受けた啓示をまとめたコーラン(クルアーン)を聖典としている。
・イスラム教徒はムスリムと呼ばれ、日に5回のお祈り、ラマダンと呼ばれる1ヶ月の断食、ハラルと呼ばれる食事制限などが特徴的で、厳しい戒律を持つとされる。
・余談ですが、現代の断食は毎年大体2月末から4月初め頃に行われ、断食後のイードというお祭り中は観光ができないこともあるので注意。
またイスラム教国家では至る所にモスク🕌があり、玉ねぎドームの両サイドにある尖塔(ミナレット)から日に5回大音量のアザーンが鳴り響くので、モスクの近くに泊まると夜明け前から起こされます。
【イスラム教のはじまり】
・紀元570年頃にアラブ半島(現代のサウジアラビアのメッカ)に生まれたムハンマドは、40歳の時大天使ガブリエルから啓示を受け、神への完全な服従(イスラーム)について説き始めた。
・当時のアラブ半島は多神教、偶像崇拝、精霊崇拝が基本であり、メッカは商業都市として栄えていた。
・メッカにあるカアバ神殿(黒い立方体🕋)はアッラーを最高神とする多神教の神殿で、クライシュ族が管理していた。
・クライシュ族はメッカの大商人であり、この内没落気味なハシーム家の一員として生まれ、幼くして孤児になった少年がムハンマドだった。
・叔父に育てられ同じく商人となり、妻子を持ったムハンマドだが、幼子の死が続いたせいか、世を憂いて洞窟に篭り瞑想していた時に突然の啓示を受ける。
・戸惑ったムハンマドを妻の従兄弟であるキリスト教徒が諭し、預言者であることを自覚した。
・読み書きのできないムハンマドが詩のように美しい教えを説いたことから、家族や友人は少しずつ入信していったが、多神教のメッカでは徐々に迫害が激化。
・52歳で信者を連れて北方500キロ先にあるメディナへ移住し、最初のモスクが築かれた。
・追撃するメッカの軍勢を追い返したのが最初の聖戦ジハードと言われ、大規模な戦闘を繰り返しながら、60歳の時に1万の大軍を率いてメッカを征服。
・無血開城ののち、カアバ神殿に祀られていた多神教の偶像を破壊し、これをイスラム教の聖地と定め、これ以降イスラム教はアラビア半島全体に広まっていった。
・62歳で亡くなったムハンマドは後継者を指名しなかったため、イスラム共同体(ウンマ)の長たちは最高指導者(カリフ)としてムハンマドの親友を指名。
・カリフの治世の中でウンマは国家として整備が進み、シリア、エジプト、イランまで範囲を拡大したが、4代目カリフが暗殺された際に後継者争いが勃発し、能力で後継者を決めるスンナ派と、血統で後継者を決めるシーア派とに分裂。
・ムハンマドには10人以上の妻がいたが、最初の妻が亡くなるまでは一夫一妻を貫き、7人の子供のうち6人が最初の妻との子だった。
・みな短命であったが、ムハンマドが寵愛した四女ファティマの名は、イスラム教で最も有名な女性の名となっている。
・男児は残らなかったがファティマの子孫によってムハンマドの血統は受け継がれ、シーア派の指導者となったばかりでなく、現在でもヨルダン・モロッコ・イエメンの王国王家は直系子孫と言われている。
・18世紀頃、メッカを領有した全盛期のオスマン帝国は、ムハンマドの聖遺物(髭や髪、爪、歯、サンダル、足跡など)をトプカピ宮殿に納め、現在でもモーセの杖やダビデの剣などと共に展示されている。
(数々の聖遺物は豪華な装飾に彩られた箱に入れられ、1400年前のものとは思えないほど綺麗に保管されていました。)
【他宗教との関係】
・イスラム教は紀元600年成立と比較的新しい宗教と言えるが、ユダヤ教、キリスト教と同じルーツを持つ。
・イスラム教の神アッラー、ユダヤ教の神ヤハウェ、キリスト教の神キリストの父は基本的に同一人物であり、天地創造→原罪→終末論→最後の審判→天国と地獄…という考え方も一緒。
・人類が誕生したのはおよそ500万年前、そこから猿人→原人→旧人→新人と進化し、約20万年前にホモサピエンスが誕生し、約1万2000年前に農耕や動物の家畜化が発祥したことで現代の人類につながる。
・世界最古の文明と言われるメソポタミア文明は、現在のイラク南部チグリス川とユーフラテス川に挟まれた平野に紀元前3000年頃から都市国家を建設し、楔形文字で記された世界最古の神話、シュメール神話を残している。
・シュメール神話は数々の文化に引き継がれ、旧約聖書の創世記もその影響を強く受けているが、それもそのはず、イスラエル人(ユダヤ人)の始祖と言われるアブラハムはメソポタミアの都市国家ウルで生まれたシュメール人の息子だった。
・当時メソポタミアでは遊牧民をヘブル人(ヘブライ人)と呼んでいて、これが後のイスラエル人、ユダヤ人へとつながる。
・紀元前2000年頃、エラム人に都市を追われたアブラハムはカナン(パレスチナ)に移住し、妻サラの産んだ子が後のイスラエル人となり、召使いハガルの産んだ子が後のアラブ人となった。
・紀元前18世紀頃、バビロン王朝はメソポタミアを統一し、世界最古の法律ハンムラビ法典を定め、バビロン(バベル)を首都とする古バビロニア王国を建国したが、紀元前16世紀頃にはバビロニアは現在のトルコにあったヒッタイトにより滅ぼされ、さらには紀元前12世紀頃にヒッタイト人が崩壊したことで、地中海東部(現在のギリシャ、エジプト、トルコ、シリア、レバノン、イスラエル)はカタストロフと呼ばれる大規模な社会変動を迎える。
・その最中に、三大一神教の元となるユダヤ教は始まった。
【ユダヤ教のはじまり】
・唯一神ヤハウェを信仰するユダヤ教はヘブライ語聖書(タナハ)を聖典とし、タナハは律法、預言者、諸書の3つに区分される。
・この内律法はキリスト教的な文脈ではモーセ五書と表現され、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記ならなり、モーセが書いたとされている。
・全部で50章ある創世記の12〜25章にかけて最初の預言者アブラハムの生涯が描かれ、生まれた地ウルからハナン(トルコ南東部)を経由してカナン(パレスチナ)へ移り、神の啓示を受けて祭壇を建てたのち飢饉に襲われエジプトへ避難、そこで財産を築きカナンへ戻ってきて眠りについたとされている。
・アブラハムの息子であるイサクの子供であるヤコブは12人の息子をもうけ、彼らがイスラエル12部族の祖となったが、中でも寵愛されたヨセフの生涯は創世記37〜50章で語られる。
・ヤコブの寵愛を受けたヨセフは異母兄の妬みを買い、隊商(キャラバン、ラクダの隊列で砂漠の輸送をする商人)に売られてエジプトへ渡り、なんやかんやありつつ夢を解き明かす力で出世し宰相となる。
・紀元前18〜17世紀頃、大飢饉をきっかけに兄弟と再会したヨセフは、彼らの誠意を試し、和解し、エジプト南部への移住を受け入れた。
・それから約400年後の紀元前13世紀頃、エジプトで増えすぎたヘブライ人にファラオ(古代エジプト王)は新生男児を殺す命令を出し、エジプト人からヘブライ人への虐待が横行していた。
・同胞を助けようとしたヤコブの子孫モーセは、うっかりエジプト人を殺してしまったことでアラビア半島に逃れたが、神の啓示を受けてエジプトに戻り奴隷のような扱いを受けていたヘブライ人を救い出し、40年かけて約束の地カナン(パレスチナ)へ送り届けた。
・これが出エジプト記にあたり、モーセの十戒や海割り、神との契約について描かれている。
・モーセが書いたとされる残りの3書、レビ記、民数記、申命記には、ユダヤ人の様々な規律や祭祀のルール、エジプトからの旅程や人口調査、モーセの説法と遺言、などが記載されている。
・預言者・諸書には預言者たちによる歴史記述が続き、モーセの死後から約700年後のエルサレム復興までが描かれる。
・紀元前11世紀頃ヘブライ人を統一したヘブライ王国が建国、ユダ族のダビデがパレスチナを統一、息子のソロモンが最盛を極めパレスチナの中心都市エルサレムにヤハウェ神殿を建設したが、
紀元前10世紀頃民衆の反発が高まり北部のイスラエル王国と南部のユダ王国に分裂、
紀元前8世紀にはアッシリアが台頭し、イスラエル王国は滅亡、ユダ王国は属国へ、
紀元前6世紀、バビロニアに興った新バビロニア王国はアッシリア帝国を滅亡させて、エルサレムの神殿を破壊し、ヘブライ人を連行して捕虜に、
バビロニアがペルシャに滅ぼされたのち、ヘブライ人のパレスチナへの帰還活動が始まり、エルサレム神殿を復興したが、
「バビロン捕囚」はユダヤ人の民族意識を高めた民族的苦難であり、その後の国家喪失(離散、ディアスポラ)から現代のイスラエル建国への正当性まで脈々と結びついている。
・かつてのイスラエル12部族の内、バビロン捕囚後も存続できたのはほとんどがユダ王国の中心民族だったため、以降ユダの民、ユダヤ人と言われるようになり、この頃正式にユダヤの教義が確立された。
・ペルシャのアケメネス朝滅亡後、移りゆく様々な王朝の支配を受けたのちの紀元前1世紀、ついにローマ帝国に組み込まれユダヤ属州となる。
・ローマに対し度々反乱を起こすが鎮圧され、最終的にはユダヤ属州という地名は廃止されエルサレム神殿は再び崩壊され厳しい弾圧を受けることになり、ユダヤ人はユダヤ教徒としての宗教的結束を持ちつつも、世界各地へ離散して統一した国家や集団を持たない民族となった。
(エルサレム神殿は今も再現されず、このときローマとの戦いにて残った壁が、嘆きの壁と呼ばれている。)
【ユダヤ教からキリスト教へ】
・イスラムに戻る前に、キリスト教の歴史にも触れることになる。
・キリスト教はイエスキリストを救世主(メシア)とし、旧約聖書・新約聖書2つの聖典を持つ。
・旧約聖書はユダヤ教の聖典を指し、新約聖書はイエスキリストの生涯と福音からなり、ユダヤ教の古い信仰を引き継ぎつつも、規律については否定している部分が大きい。
・紀元前6〜4年、ユダヤ人のキリストはパレスチナのベツレヘムにて、母マリアからダビデ王の血を引き、ダビデ家の末裔である養父ヨゼフの元に、神の子として生まれた。
・幼い頃から旧約聖書を理解し敬虔なユダヤ教信者であったキリストは、紀元27年ヨハネという預言者の噂を聞き洗礼を受け、宣教の旅に出る。
・病気を癒すなど数々の奇跡を起こしたことで弟子の集団が構成され、「律法を守ることに重きを置かず、神を信じ隣人を愛すことで救われる」と説くことで人気が高まり、警戒したユダヤ教の祭司はキリストの処刑を企む。
・当時のユダヤはローマ帝国に組み込まれていたため、判断を任されたローマ帝国の総督は、ローマの法律からは罪人と言えないキリストに対して、騒ぎが大きくなると面倒だからと処刑を命じた。
・紀元30年4月7日、100kgの十字架を背負ったキリストはゴルゴタの丘(エルサレム)まで1.6kmの道を歩き、磔にされて処刑されたが、2日後に復活し、その後40日使徒たちと過ごしてから昇天していった。
(これがイースターの起源。)
・キリストの死後、11人の弟子(裏切り者のユダを除く)は迫害されながらも世界各地でキリストの教えを広めていき、ユダヤ戦争の結果としてエルサレム神殿が崩壊した頃、ユダヤ教の一派から独立したキリスト教となった。
・4世紀頃キリスト教の神学論争が激化し、暴力抗争の解決や求心力の向上を狙って、ローマ帝王コンスタンティヌス1世はキリスト教の勢力を利用、後のテオドシウス1世はキリスト教を国教とし、他宗教を禁止した。
・2世紀から4世紀のローマ帝国は最盛期を迎え、西はポルトガル・スペインから、東はトルコ・イラク・イランまで、イギリス北部・ドイツを除く中央ヨーロッパ全域、地中海に面するアフリカ大陸北部のエジプト・モロッコなど主要都市、黒海周辺のウクライナ・ロシアまでを制していた。
・テオドシウス1世は2人の息子にそれぞれ東ローマと西ローマを統治させたが、西ローマ帝国はゲルマン人の侵攻に抗せず間もなく東ローマ帝国に吸収され、東ローマ帝国も徐々に弱体化していく。
【トルコがイスラム教国家となるまで】
・トルコ最大の都市イスタンブールは、330年の建設以来、1453年まで東ローマ帝国の首都であり、難攻不落の東西交易路として繁栄した。
・キリスト教誕生からおよそ600年後にようやくイスラム教が誕生し、ムハンマドの発足した軍勢はムハンマドの死後も周辺諸国への征服戦争を続けた。
・7世紀から8世紀にかけて、シリア、エジプト、イラン、トルコ東部と遠征活動を続け、アフリカ大陸から回り込んでスペインまで征服し、一部ではキリスト教徒を激しく弾圧、多くの者はムスリムへ改宗した。
・13世紀末、東ローマ帝国とイスラム王朝の境にトルコ人の遊牧部族長オスマン1世が現れ、徐々に領土を拡大していった。
・14世紀にはコンスタンティノープルを包囲し、15世紀には東ローマ帝国を滅ぼし、ギリシャや黒海、エーゲ海まで領土を広げて16世紀には中央ヨーロッパ、北アフリカまで達した。
・その後大航海時代へ突入し、第一次世界大戦にて敗退、オスマン帝国政府は滅亡し、トルコ共和国に取って代わられた。
・キリスト教国家からイスラム教国家へ、東から征服され徐々に移り変わってきたトルコだが、オスマントルコは宗教に寛容で国内にはキリスト教徒やユダヤ教徒も多くいた。
・第一次世界大戦敗戦後、トルコの統治を高める過程でそのほとんどがイスラム教へ改宗、もしくはキリスト教徒は国外へ移住し、現在のトルコに至る。
【聖地について】
・三大宗教の聖地とされるエルサレムは、ユダヤ教徒にとっては約束の地であり、キリスト教徒にとっては十字架にかけられ復活した場所。
・イスラム教の聖地はメッカのはずだが、なぜエルサレムが聖地とされるのかというと、ムハンマドが亡くなる前?に啓示を受けた時、大天使ガブリエルに導かれ到着したのがエルサレムの岩の上だから。
・ムハンマドはそこから光の梯子を登って天国でアッラーにひれ伏したとされ、638年に小さなモスクを建て、691年には聖なる岩を覆う巨大なドームを作り、世界最古のイスラム建築とされている。
・そもそも信仰する神も始まりの神話も同一なのだから、3つの聖地になることはやむを得ないが、なぜ山でも川でも海でも湖でもないところがポツンと聖地になったのかは不思議なところ。
【参考サイト】
・http://www2.yukawa.kyoto-u.ac.jp/~shuichi.yokoyama/html/WorldHistory/Arabia.html
・https://turkish.jp/category/turkey/
・https://www3.nhk.or.jp/news/special/news_seminar/jiji/jiji97/
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