文章が奏でる旋律に耳を傾けてみる。
「心地よい文章との出会いは、良質な音楽を見つけた時の感覚に似ている。」
だいぶ前に友人が話していたことを、今になってようやく少し、分かるようになった気がします。
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ここ数日の私は少し体調を崩していて、心身共に不安定になっていました。
復活した今日も、文章を読むのも書くのもあまり気が進まず、「記事を書くのはやめようか」と思っていたのですが、
そこでふと、冒頭に書いた文章が脳裏を過ぎりました。
何年も前の、他愛のない会話の一節。
突然何故思い出したのかと、少し頭の中を探ってみると、
(体調を崩すと文章のリズムも乱れるんだよな・・・今日は記事を書くの、やめようか・・・)
それは先ほど心の中でぼやいた時、無意識に使った”文章のリズム”という言葉に紐づいて、一緒に掘り起こされた記憶でした。
言葉と言葉を、助詞や接続詞などで繋ぐことにより一つの文が現れ、それらを連ねたものを文章と呼びます。
そこには一方向の流れがあって、確かにそこには”リズム”がある。
音読するとよりその流れを体感できるかと思いますが、
言葉、言い回し、語尾の選び方、句読点の数や位置、
細やかな選択の一つ一つが生みだす文章の流れには、それぞれの「個性」が滲み、その背景には「人格」のようなものが浮かび上がってくる・・・
「私は林檎を一つ、手に取った。」
「一つの林檎を、私は手に取った。」
やっぱりちょっと違うニュアンスになりますね。
内容は一緒なのに、少し変えるだけで余韻のようなものが変化し、その後を予期させる物語の色にも明確な差が生まれ出そうとしています。
時々、最初の一行を読んだだけで、
「この方の文章、好きかも。」
と直感することがありますが、
それは文章から漏れ出た”リズム”を肌で感じていたからだったのだと、ようやく気が付くことができました。
文章に触れる時、その流れが生み出すリズムに耳を傾けるのも、面白い視点の一つになるかもしれません。
自分が書く文章もまた、穏やかな流れを意識して書いていきたいなと思いました。
「今日は記事を書くの、やめようか。」
この言葉は時々全く当てにならないなぁと、
自分の気まぐれさに少し呆れつつ、そろそろ1000字に近づいてきたので今日はこの辺で。
最後までお読みいただきまして、誠にありがとうございます。