世界を見るときの基準値と社会との関係性【幸せになる覚悟とは】
結論から言うと「世界を見る時の基準値」というのは母親との関係性で決まり、「社会との関係性」は父親との関係性で決まる。
本当は母親から愛されているのに、幼少期に起こった色々な体験で、その愛をそのまま受け取れず、その事によって勝手に「自分は母親からは愛されていない」と勘違いしたままだとそれがそのまま世界を見るときの自分の基準値になってしまっているので、人と対話する時や関係性を持つ時に無意識下で「この人もしかしから私のこと嫌いかもしれない」になっていて、本来その人があなたにもたらしてくれている価値をそのまま受け取れなくなってしまう。
例えば何か人から褒められた時に「いやいや、私なんて…」と過剰な謙遜をしてしまう人はその可能性があったりする。
心の中で「この人私にこんなこと言ってきて何か裏があるのでは?」となって好意を疑ってしまっている状態。それも無意識下で。そう、この無意識下で、というのが一番怖いのである。自分を見つめ直さないと認識できないものだから。だから大抵の場合、本人にはその認識がないまま生きている。
で、これが父親の場合、社会と関わるときの関係性に無意識下で影響を及ぼす。
例えば、母親からの愛情は感じられていないが、父親の愛情は感じられている人の場合、人と対話するときの基準値が前述の通り「この人私のこと嫌いかもしれない」になっていて価値を丸ごと受け取れないにも関わらず、なんだかんだ表面的には社会に上手く取り繕うことができて、会社ではそこそこの役職についていたりする、なんてことはあるあるなのである。
で、なぜこの「両親の愛情の価値をそのまま丸ごと受け取れない」ということが発生するかというと、「肉親といえど個人は全く別の人間であり、それぞれ愛情表現の仕方が違うから」である。で、その愛情表現が自分の思っている通りの愛情表現でない場合、子供はそれを愛情として受け取れていない場合があるからだ。
要は「勘違い」であり「誤解」である。
愛が怒りや悲しみに変わるのはいつだってこの誤解という行き違いが原因なのである。
幼少期、事実だけを見ればそれがどんなに酷い体験と思えるようなことでも、真実を知ればあなたは両親から愛されていたのだ、ということがわかるのである。
私の場合は母とは口喧嘩しながらもなんだかんだ仲がよく、意見は違いながらも彼女にとてつもなく愛されていることは自覚していたので「世界に対する基準値」は何の問題もなく「みんな基本的には私のこと大好きでしょ。だって私は私が大好きだもの。」(もちろん中には私を嫌いな人がいることくらいは承知している。)となっているので、自己肯定感は極めて高い自負はあったのだが、長年父とは付かず離れずな関係で、特に心の内を話すこともなく、「好きでも嫌いでもないが話すのはちょっと苦手…」な感じだったのだが、それがそのまま社会と関わり合うときの関係性に反映されていたな、と今なら理解ができる。
で、帝王学的に見ても私はこの父の才能をとても色濃く受け継いでおり、よくよく考えてみたら子供の頃から「学校行事にも参加しないし、家族がいても関係なく自由気ままな人だなー」と彼に対して思っていたのだが、これは自分のそういう最大の特徴を父にそのまま見ていたのである。人は鏡、というのはよくいったものである。
何にも属さず、常に自分の自由を重んじ、その時々の自分の気分次第で動く。
まさに私がその通りであり、かつ人から非難されがちな部分、を父に見ていたのだ。
が、帝王学を勉強してこれを理解できたときに父と話し「父さんがありのままで、好きな仕事に没頭してくれたからこそ家族は何の不自由もなく暮らすことができたんだってわかったよ。今までずっと言えてなかったけどずっと大事に育てて愛してくれてありがとう。」と初めて大泣きしながら言葉にして伝えることができた。それから毎日、両親にも弟にも感謝している。
そしてそもそもこの父と私は同じ『天』の属性なのでお互いの言いたいことのイメージを瞬時に共有できるため、言葉にしない部分も、それが電話越しであったとしてもなぜか一瞬で通じる、ということが頻発するため、実は今では母より話すのが楽なのである(笑)
つまり過去の私は「幸せになる覚悟」が足りていなかったのだ。
この「幸せになる覚悟」ができると、生まれたあと起こったネガティブな出来事の一切すら本当に関係がなく「両親が自分を産んでくれた」というそのこと自体に感謝できるようになる。
自分が今この地球に存在している、そのこと自体に感謝できるようになるからである。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?